文彦は胡乱気な瞳で天井を見上げていた。日が傾き始めている。しかしうだるような暑さはそのままで、一度帯びた熱は冷めることを忘れてしまったようだ。喧噪は遠く、呼吸音だけが耳を震わせる。しかしそれは文彦のものではない。彼自身が立てる音は、全て鼓動の音にそのうねりを溶かされた。だから音の主は必然的に、彼の隣で眠っている少女ということになる。
 シーツを纏い、マネキンのように動かない少女。その寝息だけが彼女の生存を告げている。それがなければ、彼女は名の通った女神像にもなれただろう。少なくとも文彦は、彼女のことをそれぐらい美しいと感じている。
 収まらない熱。それは先程少女が見せた淫らな痴態から伝わった原子の振動か。しかし文彦の心はむしろ、冷や水を浴びせられたままに冷めていた。この日、彼の恋はある意味終わりを告げていた。ギロチンにも等しい、ワンオブゼムの宣告。熱と冷気の狭間で、文彦の心は陽炎のように揺らめいていた。



   ―― 花は咲けども ――



 文彦が少女、八重に出逢ったのは高校に入学した日のことだった。中途半端で進学校という呼び方が適さないような、平凡な私立高。それでも入学式の頃までは様々な期待があった。しかしその期待は泡のごとくはじけて消えてしまう。完全に成績順のクラス分け。それが文彦にとっての不運だった。
 中の上から上の下。中流志向の強い日本において最も好まれる在り方だ。そして、文彦は成績も容姿もまさしくそれだった。そのため、彼は成績順で上の下のクラスになった。比肩するものなく好まれる位置。しかし現実は理想に従順ではない。そのクラスは他のどのクラスよりもつまらない、それが文彦の感想だった。
 もう少し上のクラスであれば、勉強とは違う意味でも頭の良い人間が少数ながら存在するようになる。機知に富む友人との交流は、日々を豊かな知の探求の場へと変えてくれるだろう。それならば学校というところも興味深い。
 逆に下のクラスであれば、今度はもっと日々を楽しく生きることの出来る人間が増える。何気ない日常を楽しめる、これもまた一つの才であろう。楽しい日常というものが得られるのであれば素晴らしい。
 しかし、文彦が現実にいるのは、上の下のクラス。彼の目から見れば、このクラスはつまらない人々ばかりであった。無駄に上昇志向は強く、そのくせ努力の伴わない者。あるいは日々を無為に生き、その才を鈍らせるだけの者。あまりに刺激がない。一度そう感じてしまうと、もうクラスには溶け込めない。入学式後のホームルーム、それが終わり次第文彦は教室を後にしていた。
 そうして教室を出た者の、行く宛などない。他のクラスは未だホームルームが終わらず、いっしょに帰るべき友人もいなかった。仕方なく時間を潰そうと校舎を歩き回る。そしてふと足を向けた屋上。小説などでは頻繁に舞台として登場しながら、実際に出られる学校は比較的稀である。そしてこの学校は数少ない例外だったらしい。屋上への扉が開いているのを見かけ、文彦はそちらへ行ってみることにした。

 その時文彦は、生涯で二度と無いような恋に落ちた。

 広がる青空。少し早く咲いた桜の花びらが僅かに舞っている。そして文彦の正面。こちらに背を向け、空を眺めているとおぼしき少女がいた。
 黒曜石の煌めきを持つ、艶やかで長い黒髪。古来より女性の美しい黒髪は、蒼いという言葉でその色を褒め称えられてきた。しかし、少女の髪は蒼いというより、青く感じられた。春には少し似合わぬ、底が抜けたように深い青空。そよ風に揺れる様が、青空に溶け込んでいくように感じたのだろう。それとも青空がその髪に染み込んだのか。ともかく、文彦はただその少女を、美しいと感じた。
 一歩屋上へと踏み出す。その音に気付いたのか、少女が振り返る。その瞬間のことを文彦はあまり覚えていない。既に彼は心臓の高鳴りを抑えられず、どうすることも出来なくなっていたのだ。
 少女は屋上への来訪者を認めると、それとなく微笑みを浮かべた。そのゆったりと自然な動作が、さらに文彦の心を惹きつける。
「貴方……新入生?」
「え……は、はい、そうです」
 声をかけられるとは思っていなかった。その少女を別世界に住む天使のような、そういう神々しいもののように感じていたからだ。だから文彦は少しどもってしまう。
「珍しいですね。入学式の日から屋上を訪れるなんて」
「そ、そうですか? ちょっと校舎を見て回ってたら、開いていたので覗きたくなって……」
「ここに来たんですね。先客がいて、驚いたでしょう?」
 少女が口元を歪めて笑みを見せる。薄くて淡いピンク色が、また一つ文彦の心臓を高鳴らせた。
「え……あはは、まあ」
 文彦は曖昧な笑顔しか浮かべられなかった。少女もそんな様子にくすくすと少し笑う。
「ふふ、正直ですね」
 また少し少女は笑った。急に恥ずかしさを覚え、文彦は顔を伏せる。その色はもう少しで茹で蛸だ。
「貴方、お名前は?」
「え?」
 突如の少女の問いかけ。予期していなかった文彦は、言葉につまり問い返す。それから、しまった、と思った。
「だから、お名前」
「……太田文彦。俺は、太田文彦、っていいます」
 少し言葉につまりながらも、何とか文彦は答える。それだけで喉はからからに渇き、呼吸が上手くできなくなる。そうなってやっと、文彦は自分の気持ちを理解した。
「私は二年の山吹八重。よろしくお願いします、文彦君」
 少し首を傾け、笑顔を見せた八重。またも覚えた高鳴りで、文彦ははっきりと意識する。自分はこの年上の少女に恋をしたのだ、と。

 これが、文彦の初恋である。

 文彦は毎日屋上に通った。昼休み、八重がいつも其処にいたからだ。いつも彼女は文彦より先に屋上にいて、フェンスに寄りかかりながら空を眺めている。だからだろう、晴れの日は八重の髪が青空を映しだしていた。あの日、文彦が胸の高鳴りを覚えたのと同じように。
 会話が弾むわけではない。時には互いに饒舌なこともあったが、八重はあの日の印象とは逆に、黙って聞いていることの方が多かった。それでも文彦は満足していた。少なくとも、自分が嫌われているわけではない。いつの日かこの距離が近付くかもしれない、そう思いながら人一人分ぐらい開いた距離を楽しんでいた。
 そうして話していくうちに、少しずつ彼女のことも分かってきた。成績は学年でトップクラスであること。家が意外と近いこと。彼女の父親が植物学者をしていて、母親は主婦であること。文彦と同じく、祖母を既に無くしていること。ピアノを幼い頃から習っていること……。良家のお嬢さま、という印象がぴったりだった。一方、文彦は自分のことも話した。少しでも会話がしたかったのだから、それは当然の成り行きと言えるだろう。僅かではあるが相手のことが分かり、自分のことを知ってもらえたと思うと文彦はこの上ない喜びを感じていた。
 彼女と出会い、話すようになってから二月ほど経った。相変わらず、文彦は距離を縮められない。少しでも近付けば、彼女の気持ちに触れるより先に心臓が破裂しそう。もちろんそんなはずはないのだが、それでも……そう思っている内に、梅雨に入る。雨の日が増えると、文彦は八重に自然と逢えなくなった。二人の接点は屋上にしかない。屋上という異質な空間でしか二人の線は交わらないのだろう。文彦は上級生の教室に行ってでも八重に逢いたかったが、恋人でもないのにそうするのははばかられた。雨に濡れぬかるんだグラウンド。それがひどくよく似たものに見えていた。



「へぇー。とうとうお前も恋をするようになったか!」
 うんうんと頷く、文彦より少し背の高い少年。今ではめっきり少なくなった刈り上げ頭がスポーツマンを印象づける。体格も運動部に入っていない文彦に比べればがっしりしているだろうか。
「小学生の時から彼女がいる達紀の方が変なんだよ」
「そうか? 真菜みたいな可愛い子が近くにいたら、普通は彼女にしたくなるぜ」
 達紀と呼ばれた少年はばしばし文彦の背中を叩いていたが、突っ込みを受けると急に真面目な顔になる。惚気でもなんでもなく、本気で言っているようだ。
「はぁ……また惚気かよ。なんでいっつもいつも、そんなに惚気られるんだ?」
「こんなの、惚気でも何でもねぇぞ。惚気て欲しいのならそれはそれでとことん語ってもいいんだが……」
「降参、降参。達紀の惚気に付き合わされたら、一月ぐらい軽く経ちかねない」
「いや、それはないな。そんなに真菜に逢えなかったら、きっとひからびちまう」
 大きく声を上げて笑う達紀を横目に身ながら、文彦は大きく溜息を吐いた。文彦にとって数少ない、気の置けない友人である達紀。彼には小学六年の時から、互いに一目惚れだったという彼女がいた。くりくりっとした丸く大きな目とくるくる回る表情が魅力的な、真菜という少女。二人が付き合いだしてから、もう四年近く経つことになる。どう考えてもおかしい、そう言わない友人はいない。その一方で、友人の誰もが彼らの関係に憧れていた。十六直前にして交際歴四年は伊達ではない。
 七月にしては穏やかな陽気の日曜日、文彦は達紀と街に遊びに出た。久々の快晴、久々の休み。期末試験が近かろうと関係ないと言わんばかりに、二人は雨水と共に溜まった鬱憤を晴らそうと遊び回ったのだ。そしてその途中。文彦はうっかり、自身の恋のことを漏らしてしまった。そこから誘導尋問を巧みに使う達紀に洗いざらい白状させられ、先程のやりとりに繋がったわけである。
「しっかしなぁ……奥手の文彦が惚れ込むとなると、よっぽど可愛いんだろうな」
「奥手って……そう言われても仕方ないのも分かるけどさ。親父とお袋を見てるとな……」
「あぁ……文彦の両親、相変わらずなのか?」
 文彦は静かに頷いた。いつの間にか口は真一文字に閉じられ、眉間にしわが寄っている。達紀がすまなそうに一言、悪かった、と告げた。

 文彦の両親は、共に浮気癖がある。両親共に自身を愛してくれてはいたが、だからといってそれで二人の縒りが戻るわけでもない。自分がいる時はよい親を演じ、両親二人だけになれば互いにいがみ合う。表に出ていなくとも、家族の崩壊に子供が気付かぬはずがなかった。
 父親を糾弾したこともある。困ったように少し薄くなった髪を掻き上げた父は、次の瞬間文彦を殴っていた。それ以来、文彦は父のことを信用していない。また、母親を糾弾したこともあった。母は困ったように苦笑いし、頭を一撫でしたが、それだけ。かえって裏切られたという思いに囚われた。
 そうして崩壊した家庭を見続けてきた文彦。彼がそれでも道を外れずに済んだのは、達紀をはじめとした親友と呼べる存在がいたからである。おそらく、そのうちの誰が欠けても今のようにはいられなかっただろう。文彦がクラスを見放したのは、そういった親友が誰一人いなかったからかもしれない。

「気にする必要はないよ。それが当たり前だったんだし」
「そうは言っても……なぁ?」
 達紀は自分を責めている。その表情に浮かぶのは後悔の念。しかし、こういう人間だからこそ文彦は今まで助けられてきたのだ。だから責める気持ちなど浮かぶはずもない。浮かぶのは、ただ感謝の念のみ。
「……ありがとな」
「ん?」
 ぼそっと呟いた声。それは達紀の耳に届かなかったらしい。いや、それとも気付かないふりをしたのか。妙に気が付くやつだから、きっと後者かもしれない。文彦はぼんやりとそう思った。
「そういや、お前が好きになった相手って、誰なんだ?」
 しばらく無言を続けた後、達紀が口を開く。先程の雰囲気を微塵も感じさせない、明るい口調。そこには人が気付きにくい優しさがある。上辺ではなく本当に優しい人間は、それ相応のものを抱えているという。達紀もまた、裏では何かがあるのかもしれない。
「……どうしても言わないと駄目か?」
「当たり前だろ。俺の好きな奴の名前をお前は知ってるのに、お前の好きな奴を俺が知らないってのは不公平だ。俺には知る権利がある」
「むちゃくちゃだな、相変わらず」
「なんだよそれ。俺、なんか間違ってるか?」
 互いに笑う。暗い空気は居たたまれなくなったのだろう、すっかりどこかへ消え去っていた。
「いや、間違ってないかも。確率は一パーセントぐらい?」
「低すぎ。二パーセントは確実にあるな」
 また大笑い。
「んじゃ、その二パーセントって事で」
「お、やっと話す気になったか。同級生? それとも先輩か?」
「先輩。山吹さんって……知ってる? 二年八組の」
 途端、達紀の顔が曇る。それに気付かず文彦は八重のことを話し続けていたが、急に黙り込んだ達紀に違和感を感じ話を止めた。急にどうしたというのか。嫌な予感が襲ってくる。
「……やめとけ」
「んなっ!」
「やめといた方がいい」
 達紀はただ、やめろ、とだけ告げた。その表情は真剣そのもの。有無を言わさぬ迫力がある。しかし。
「なんでだよ……どうして彼女のことを何も知らないお前にそう言えるんだよ!」
「お前は知らない方がいい。やめておいた方がいい、ただそれだけだ」
 その瞬間、文彦は殴りかかりそうになった。達紀は何を言っているのか。どうしてやめておいた方がいいのか、理由も聞かずにはいそうでした、とはいかない。その程度で冷める熱なら恋とは呼べないだろう。例え冷めやすくとも燃え上がれば止まらない、それが恋するということなのだから。
 だが、文彦はそこで何とか己の感情を抑えた。ここまで言うからには、きっと達紀の方にも何か事情があるに違いない。それを聞かず、ただ諦めるなんて出来ない。
「……わかったよ。でも理由は聞かせてくれ。理由も聞かずに、諦めるなんて出来ない」
「……後悔しないか?」
「しない」
 文彦は断言する。しかしそれは自信があるからではなく、ただの盲信に過ぎない。それも対象は彼女ではなく、自身の想いのみというもの。それでも信じたい。信じなくてどうするのか。いや、そもそも何を信じるというのか。
「彼女の噂、知ってるか?」
「噂?」
「ああ。先輩に聞いた話なんだけどな。その、お前が好きだという山吹先輩って……」
 ぴた、とそこで言葉が止まる。達紀は驚き目を見開いていた。何事かとその視線の先を追うと……。
彼女がいた。白地に黒のセーラー服姿で。それも、スーツ姿の中年と、腕を組んで。
そして二人は、繁華街の裏路地……ホテル街の方へと入っていく。見た瞬間、文彦は世界が凍ったと感じた。喉がからからに渇く。なんだ、これは。世界が暗闇に包まれる。なんだ、これは。世界が、色を失う。なんだ、これは。
「……最悪だな。援交の噂、本当だったんだ」
 援交。その二文字だけが頭に入ってきた。まさか。まさか、彼女が? そんなそぶりはなかった。屋上で話す彼女の印象はひたすら清純で、透明で……。なんだ、これは。
 瞬間、文彦は駆け出そうとする。ここに立ち止まっているなんて出来なかった。だがすぐさまその手を掴まれ、引っ張られる。ふりほどこうと手を大きく振ってもがく。行かないと。行かないと――――!
「おい、どこへ行く気だよ!」
「……連れ戻しに行く」
「やめろ! お前が行ってもどうにもならねぇよ!」
「それでも……!」
 邪魔だ、と達紀を睨みつけようとして文彦は気付いた。達紀の目に、光るもの。見た瞬間、沸騰したかのように湧き出た怒りも、堰を切ったように押し寄せていた悲しみも、全てが急速に冷めた。
「俺だって、噂が本当だと思っちゃいなかったさ。それでも火のないところに煙は立たないからって言いたかっただけだったんだ……」
 文彦の胸の痛みを共有するかのように達紀が声を絞り出す。この心優しい親友は、俺の分までいっしょに傷付いてくれた。それを感謝しながらも、文彦はどうしようもないやるせなさに自分を抑えられなくなる。だって、どうしようもないではないか。なにができる。何ができる!
「帰るわ、俺……」
 しばらく形にならなかった言葉をようやく形にして、文彦は歩き出す。その余りの痛ましさに、達紀は声をかけることも出来ず立ちつくしていた。

 その日、それからどうしたかを文彦はよく覚えていない。気付いたら布団にくるまって泣いていた。ただひたすら、声も涙もかれるまで泣いた。
 裏切られた。ただその言葉だけが文彦の頭の中でループする。だが、裏切った存在とは何か? 山吹八重という少女……いや、彼女は嘘を吐いたわけでもない。ただ、文彦が知らなかっただけだ。じゃあ、裏切ったのは誰? それは文彦が心の中で思い浮かべていた、勝手な八重という少女の偶像。ただ自分勝手にいろいろと思い込み、それが間違いだったというだけに過ぎない。
 少なくとも、彼女はいけない行為をしている。だが、はたしてやめろと言う権利が自分にあるのか? 多分、そんなものはない。
 少年は自信の身勝手さと無力さに、かつて無い悔しさを覚えて泣いていた。

 夜が明ける。黎明の灯りが部屋を紅く染めていく。その寂しい色は心と世界が逆転したかのようだ。
 文彦は結局一睡もできなかった。彼の内側ではまだ暗雲がうねりを上げ、どす黒い感情が蛇となってとぐろを巻き、凍てついた刃が自身をみじん切りにし続けている。それでも動き出す。真実を知るために。
 足取りは重い。学校にたどり着けば、全てが分かってしまう。そもそも、どうしたいのか。尋ねて肯定されたら、どうすればいいのか。否定されたとして、信じられるのか。例えばあれが親であったとか、そういったありえない嘘でも……縋ってしまうのだろうか。
 信じる。それは一言で表される割にひどく曖昧だ。誰かを信じるという。それははたして本当にその人を信じているのだろうか。信じている自分、というものを信じているのかもしれない。いや、そもそも信じる自分を信じようとして……信じるという欺瞞に満ちた行為はフラクタルだ。どこまでも細分化しても同じ構造が現れる割に、やはり『信じる』という行為でしかない。
 そして昼休みという名の悪夢の時間が訪れた。もちろん、文彦には屋上に行かないという選択肢がある。だが悪夢の中をたゆたい続けることにいかほどの意味があるのだろう? 何も見なければ傷付かないかもしれない。だが、傷付くことより怖いこともある。例えそれが致命傷になりかねないとしても。
 踏み出した一歩。いつもと同じ空、いつもと同じ無機質な地面があった。黒と白のように、非常に対照的でありながらどこか似たものがある。そしてそんな自然と人工の狭間、世界の中心に彼女――――山吹八重は変わらず佇んでいた。
 一歩を踏み出す。彼女が気付く。
 もう一歩。彼女が声をかけてくる。
 更なる一歩。彼女の言葉が止まる。
 止まりそうで止まらぬ一歩。彼女が首を傾げる。
 無理に持ち上げ、降ろそうとする――――その一歩は、たたらを踏んでいた。
「どう……したの? 文彦、君?」
 困惑の色を八重は隠せない。それもそのはず、文彦は俯いたままその足取りを止めてしまった。肩を震わせ、唇を真一文字に結んでいる。
「昨日……」
「え?」
「昨日、見ました。山吹さんが、街で、……」
 続きは言葉にならない。言葉に出来るはずがない。見たものそのままに表現しようとすれば、どうしても主観が入る。この少女に恋する文彦である、それが最悪な方向に向かっていることは間違いない。だが、違えば……あるいは、目の前の少女を怒らせるかもしれないのだ。いや、それ以前に文彦は怖かった。口にした言葉に対し、彼女が重力の誘うそのままに首を振ってしまうのではないかと。だから最後まで口に出せない。
 遠くで蝉が鳴いている。強い陽射しが影を動かしもてあそぶ。蝉は何度も鳴き止んではまた鳴き始め、時をループさせていく。影が最も短い瞬間を過ぎた。
「……見たのね?」
 その声色を形成する振動が文彦の耳に届いたことはない。拒絶。軽蔑。そういった、当初文彦が予想していたものとは違う。その声は、ひどく透明だった。透明であるが故に、ガラスのように鋭く、固かった。そして夏にその熱を与えながら進み、届く頃には文彦の心を凍てつかせていた。
 心が痛い。心が痛い! それはどちらの心の悲鳴か。いや、それは俺のものに違いない。彼女だったら、どうして声がそんなに冷気を帯びるのか。
 ふ、と八重が右手で耳にかかるあたりの髪を払った。青黒く艶のある髪がさらりと風に舞い踊る。そして溜息を吐いてから、八重は右の手の平を額にあて、前髪を少し持ち上げた。
「テストの最終日、終わったら私の家に来て。そうしてくれれば話すから」
 顔に何らかの色も浮かべる事なく告げると、八重は歩き出した。文彦は呆然としたまま立ちつくす。すれ違う瞬間、風にながれる髪が彼女の匂いと共に文彦の鼻をくすぐった。それにまたどきりとして、文彦は何か話そうと振り返る。だが口を開いても声は出ない。八重の背中が全てを拒絶していた。
 少女の姿が消えても文彦は動かない。動けない。心の中の嵐はいよいよ天と地がひっくり返り、落ち着けぬままただ立ちつくしている。そしてどれほどの時間が経っただろう、チャイムの音とともに文彦は動き出した。心はセメントを塗ったかのように無理やり固められていた。



「……お邪魔します」
 声はよく響くが、何も返ってこない。文彦を招き入れた八重は、何も言わず二階への階段を登りはじめた。それを文彦はぼんやりと眺めている。玄関には上がったものの、そこから動いていない。動く勇気がない、というのが最も正解に近いだろうか。
 数段登ったところで八重は振り返った。どうして吐いてこないのか、と問い質すような視線。その冷たさにまたも文彦は心が潰れそうになる。それでも動かないわけにはいかない。一歩一歩、段を踏みしめていく。その度にぎしぎしと音が鳴り、文彦には絞首台への階段であるかのように感じられた。
 階段を登り切ると、廊下の左右に扉。右にある扉の前で八重は立ち止まり、文彦の方を見ている。今の視線は無色。いつも通りのセーラー服だというのに、その佇み方がいつも以上に美しく見える。それは純粋だからだろうか、と文彦は思った。
 促すように目配せされた文彦は八重の傍まで行くと扉を開け、中に入った。そして驚く。あまりに無機質で透明なその部屋に。勉強道具などはきちんとあるものの、飾り気というのはこれっぽっちもない。だからといって機能美かというと、それもまた違う。ただ最低限生活できる能力を持たせただけの部屋。そこには少女らしいものがない。だから文彦は驚いたのだ。
 呆然としながら、文彦はのろのろと部屋の真ん中へと歩き出す。机の上には参考書が一冊広げられたまま。だがそれ以上に文彦が気になったのは、ただ真っ白なシーツの引かれたベッド。どこかでそういう期待をしていたのかもしれない。暗い欲望。だがそれは仕方のないことだろう。まだ他人を尊重するという理性の未発達な思春期の少年に、そういった感情を持つなと言う方が難しい。だから、その色の無さが部屋の印象の全てだった。
 カチリ、と音が後ろから聞こえ、文彦は振り向いた。後ろ手に八重が触っていたものは……部屋の、鍵。まさか、そういうことなのか。どこかで期待がふくらみ、それが更なる恐怖の呼び水となる。心拍数は高まり、それをどこか冷めた目で軽蔑する自分がいる。だが、近付いてくる彼女の表情は、生やさしいものではなかった。
「……見たのね? 私が見知らぬ男とホテルに入っていくところを」
 そう、きっと。八重は怒りを隠していたのだ。これまで文彦が知らなかった激しい気性が顔を覗かせている。だが、その怒りとは何に対してなのか。文彦にはさっぱり見当が付かなかった。
 じわり、じわりと八重が迫る。少しずつ千切れていくザイルのように、文彦は動けぬままその終わりを待つしかない。八重の匂いが備考をくすぐった瞬間、文彦はベッドに向けて押し倒されていた。
「……え?」
 二人は絡み合うようにベッドに倒れ込む。白い平面が中心に向かって沈み込み、波が全体を揺らす。
「貴方は、私の呪いが解ける?」
 え、と文彦が問いかける間もなく。八重が文彦に覆い被さり、唇を重ねてきた。唇を貪り合い、舌と舌が絡み合う。官能的な陶酔に堕ちていく中、殺されるわけではなかったのか、という思考が文彦の片隅に浮かんで消えた。

 それが文彦にとって夢のような時間であったのは間違いない。最愛の少女と、夏の昼下がりに閨を共にする。それは何にも勝る悦びだろう。
 たとえ八重が援助交際をしていようと、それでも自身を好きになってくれるならそれでいい。少女の肢体を夢中で味わう最中に出された結論はどこか甘えに似た妥協。だが、それだけで文彦は夢中になれた。男を夢中にさせる術を全身に覚えたかのような八重の痴態にも。
 だがそれは夢でしかなかった。はてた直後に告げられた言葉。
 また一人増えた、と。
 その言葉には、想像も付かないほどの呪いが込められていた。
「また……一人、増えた?」
「ええ、そうよ。私を妊娠させてくれるかもしれなくて……多分、駄目な人」
 その瞬間、文彦が異星人を見るような目で少女を見たとしてはたしてそのことを責められるだろうか?
「……私が気持ち悪い? いいわ、話してあげる。私の、呪いを――――」
 文彦は逃げ出したかった。全てを捨ててでも、この瞬間から逃げたいと思った。だがそれはできない。八重の言葉はナイフとなって文彦に突きつけられている。恐怖は何にも勝る呪縛なんだ、文彦はそう思った。
 そして八重は語り出す。自身の生い立ちから来る、呪いを……。

 八重の両親もまた、物心ついた頃にはぎくしゃくしていたという。文彦の両親と違ったのは、一方的な虐待であったこと。人格者として知られるはずの父は、母と二人きりの時には暴力を振るっていたのだ。愛人もいたのかもしれない……それらしき覚えはあった。だが、何故か母はそれをただ耐えようとしかしない。恨み言も耳にしたことがなかった。だから八重は幼い頃、何度も母に言ったことがある。父から、二人で逃げよう、と。しかし母は黙って首を振った。
 そして八重が十五になった日。彼女がこれ以上ない絶望に包まれることになった、運命の夜。
 突如寄った父が部屋に入ってきた時、八重はその後起こることを想像だにしなかった。いや、できるはずもない。
「父は……突然私をこのベッドに押し倒し、組み伏せたのよ。そして泣き叫ぶ私を無理やり犯したわ。何度やめてと頼んでも聞いてくれなかった。それどころか酷くなるばかりだったわ」
 そうして八重は父に純血を奪われた。全てが嘘だと思いたくなる悪夢。だが、痛みがそれを現実だと告げている。
 どうして、と一言漏らした八重に、父は言った。お前は、俺の実の娘じゃないからな、と。
 再び八重にのし掛かった父は、嬉しそうに全てを語った。八重が母の浮気で出来た子供であること。それを知らず、自分の子だと思って結婚したこと。しかし産まれる直前になって知らされたのだ。八重が、父の実の子ではないことを。
 その日から信じられるものはなくなった、と父は言う。しかし八重はそれを嘘だと感じた。父の顔には、狂気に彩られたとはいえ、確かに愉悦が浮かんでいたのだから。
 だが本当の絶望は最後に待っていた。
「私がどうして八重と名付けられたか……それを父は嬉々として語ったのよ」
 植物のヤマブキには、八重咲きになるものがある。だがこれは遺伝的変位によって生まれた一代限りのものに過ぎない。おしべを作る機能が有効に働かず、おしべになるはずの部分が全て花弁に変わってしまうからである。だから多くの花びらが重なり、見事な花を咲かせるようになるのだ。しかし、おしべがないというのは生命としては欠陥品である。八重咲きのヤマブキは、『みの一つだに……』と詠われた歌の通り、本当に実を作ることが出来ないのだ。
「八重という名前を付けたのは、同じように子供が生まれない子供になることを願ってなのよ。浮気者の血は決して残さないという呪い。生まれつきそんな十字架を背負わされてきたことを、初めて知らされたわ」
 そう語った八重の顔は、泣いているように見えた。しかし、続く彼女の言葉に文彦は泣きたくなった。
「だから、私は誰にでも抱かれるわよ。そうすれば、いつか誰とも知れない男の子供ぐらいはできるかもしれないから。あんな男の呪いに縛られたくないのよ」
 その言葉は、一つの通告だった。文彦も行きずりの男の一人に過ぎないのだという、特別であることを全て否定する言葉。自分の想いは彼女に届かない、そのことを文彦は悟ってしまったのだ。
 そこまで語ると、八重は満足したかのように眠ってしまった。文彦は溢れる涙を抑えきれなかった。



 ――――どうして。どうして、運命はこんなにも残酷なのか。



「……まだ、何か用?」
 秋の高い空の下。数ヶ月ぶりに、文彦は昼休みの屋上を訪れた。以前のように空を眺める八重がいる。だから、文彦はまた一歩を踏み出した。
「もうわかったでしょう? 私がどんな女か」
 以前と違い、その言葉遣いに丁寧さはない。だからこそ、今の彼女は少なくとも以前より心を開いてくれている。それだけは間違いない、と文彦は確信する。だから、もう一歩近付いた。
「……また抱きたい? それはそれで構わないわよ、そんなのどうでもいいから」
 険呑な表情。そんなものどうでもいい、と今の文彦には思える。だから、歩みを止めない。一歩、また一歩と近付く。瞬間、八重の顔に怯えの色が表れた。どうして、避けようとしないのか、と。
 困惑の色を隠せない八重を、文彦は抱きしめた。力強く、それでいて包み込むように。
「……なに、を」
「俺が守る。呪いだって打ち勝てる」
 柔らかく、細い。だから守りたいのだ。
「俺が支えるし、守る。だから、俺といっしょにいよう」
「勝手なこと、言わない――――」
 文彦は強引に唇を塞いだ。有無を言わせるつもりはない。言わせたら彼女は手の中から逃げてしまい、終わりのない地獄の中に留まったまま……そう思えるのだ。だから文彦は抱きしめる力も一層強めた。そして唇を話すと耳元で囁く。
「僕が一生守り通してみせるし、呪いだって打ち破ってみせる。だから、いっしょになろう」
 そして最後に一言呟いた。

 ――――姉さん。



 八重咲きのヤマブキの花は、実をつけることがないため実で増やすことが出来ない。そのため、増やすには挿し木などをして、同じ遺伝子を増やすしかないのである。同じ遺伝子を持つものを。













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