月姫SS 初めての……



 夏が終わりを迎える頃には、残暑が厳しくとも夜には涼しくなるものだ。その微妙な気温差が温かな紅茶をよりおいしく感じさせるのかもしれない。もっとも、そうでなくとも琥珀の淹れる紅茶は格別だが……そっとカップに口をつける。よい香りが鼻腔をくすぐる。少し口に流し込むと、なんとも形容しがたい絶妙な味が口に広がった。咽喉を通ると、その温かさが体に染み渡ってくる。
 うん、おいしい。
 ふぅ、と一息ついたところへ琥珀が声をかけてきた。
「もうすぐ、秋葉さまの誕生日ですね。どうなさいますか? 今年も――」
 ああ、誕生祝賀会の招待客に関する相談か。となればまず分家の者たちに関してだろう、と続く言葉の予測がついたので遮ることにした。だって、冗談ではない。分家の者たちに邪魔など、されたくない。
「その必要はないわ。今年は私たちだけにしましょう」
 私が本当に祝ってもらいたい人は今はこの屋敷にしかいない。いや、正確には他にもいる。でも、浅上の友人たちはあちらにいるときでかまわないのだし、おそらくそうしてくれるだろう。あちらはあちら、こちらはこちら。
「では、今年は4人でパーティーですねー。今年は志貴さんもいらっしゃいますし、腕によりをかけますよ。期待してくださいね」
「ええ、そうね……」
 曖昧に相槌を打ったものの、琥珀の最後の方の言葉など頭に入っていなかった。途中で気付いた事柄に、私の思考は埋め尽くされたからだ。なぜなら、そう。そう、今年は兄さんがいるのだ。兄さんが帰ってきてから初めての私の誕生日。そのような日だから、他人に入り込まれたくないという思いは強い。でも、本当は。本当は、4人よりも―――。
「……さま? 秋葉さま? よろしいでしょうか?」
「え?――――何よ、琥珀」
「あの、秋葉さま、もうカップをお下げしてよろしいでしょうか?」
「え?……ああ、そうね。お願い」
 少々もの思いに耽りすぎたのだろうか。カップがとうに空になっていたことにも気付かないとは、少々無様だろう。――まだそこまでは望むべきではないのはわかっている。今は、まだ。そう、今は。でも――
「では、失礼します」
 琥珀が台所へ行くのをぼんやりと眺めながら、ふと考えた。兄さんは昔この屋敷で二年近い月日を過ごしている。ならば当然、兄さんが屋敷を出ることになる前にも私は兄さんに誕生日を祝ってもらったことがあるはずだ。あの時はどうだったのだろうか。あの頃なら、そう――?
「どうして」
 愕然とした。兄さんとともに誕生日を過ごした記憶がない。思い出せない。なぜ。何かがあったというのだろうか。有り得ない話ではないが、それでも。一時たりとも兄さんとともに過ごした日々は忘れていないつもりであったというのに―――。






 誕生日が近づくにつれて、兄さんと琥珀が、或いは兄さんと翡翠が声を潜めて何かを話している姿を見かけるようになった。私がそれに気づくと、琥珀も翡翠も途中でこちらをこそっと窺う素振りを見せる。本人たちは気付かれぬよう伺っているつもりなのだろうけど、それに気付かぬほど私は鈍感ではない。とはいえ、内緒話とは……この時期にする内緒話など、まあ理由は想像するまでもないだろうけど。
「あら、兄さん、どうしてそのように声を潜めて翡翠とお話になるの? 私に聞かれるとまずいことでもあるのかしら?」
 ちょっと兄さんをからかってみることにする。……決して仲間外れにされていることが寂しいからではない、はずだと思いたい。
「い、いや、そんなことはないさ」
 案の定兄さんは言葉に窮した。
「では私にもその話を聞かせてくれますか? やましいことがあるわけではないのでしょう?」
「う、それはそうだけど……」
「ならばはっきりと仰ってはどうですか? 大方なんらかの愚痴でしょうけど」
 兄さんはあまりにあっさり追いつめられた。いくら何でも呆気がなさすぎる。これではまるで兄さんが蛇に睨まれた蛙のようだ。仕方ない、と助け舟を出してみると、思ったとおり兄さんはほっとした顔になった。
「そんなんじゃないよ、秋葉。少なくとも今は愚痴ったりはしていない。」
 ――――今は? 『今は』ということは……へぇ、そうなんですか、兄さん。そうだろうとは思っていましたが。 「へぇ、今は、ですか? 今は違う、ということは当然――――」
「……秋葉、俺ちょっと用事を思い出したから出かけてくる!」
 私の言葉を遮って突然、捲し立てるように兄さんは喋った。
「な、兄さん、ちょっと待ちなさい! まだ話が終わっていませんよ!」

「ごめん、それと……秋葉は怒った顔も可愛いな。」
「なっ」

 ボンッ。
 顔から火が出た。例えその場逃れのための言葉であろうと、兄さんに面と向かって可愛いなんて言われれば……。ああ、おかげでまんまと逃げられてしまった。



「秋葉さま、いくらなんでも今のはあんまりだったと思いますが」
 暫し経つと、翡翠がボソッと漏らした。言われなくとも、そんなことはわかっている。今のは八つ当たりのようなものだ。……損しているのかしら? と自問してみる。だが、それ以上に気になることがあった。
「ねえ、翡翠」
「何でしょうか」
 う……翡翠は怒りのオーラを放っている。この一途さと素直さが妬ましく感じることがある。
「兄さんのことだけど。――本当に、気付かれていないと思っているのかしら」
「何をでしょうか?」
「決まっているわ。あなたたちの内緒話が何であるかということよ。」
 その言葉を言うなり聞くなり、私たちは一斉に深いため息をついた。理由は言うまでもないだろう。
「失礼ですが、志貴さまはやはりそのあたりが鈍いようです」
 しゅんとする翡翠。彼女自身は使用人として至らないことが一因にあると考えたのだろうが、その態度が自分のせいだと言っているような――志貴の所有権をさりげなく主張するかのような――態度に見えた。……嫉妬するなんて、みっともない。
「そうね。困ったものだわ」
 私は再びため息をついた。どうして兄さんはああまでも鈍いのか。時にはその鈍さに感謝するときもあるが可愛さ余って憎さ百倍、である。だが、こうして沈んでいても仕方ない。
「裏庭を散歩してくるわ。翡翠も仕事に戻りなさい」
 鬱陶しい空気を払い飛ばすため、いつもより大声を出した。それでも、歩き出すと外が妙に明るく見えた。薄暗いはずの林の中でさえも。





「くしゅんっ!」
 私は大きなくしゃみとともに目覚めた。肌寒い。まだ九月だというのに、この寒さはなんだろう。真冬とは言わないまでも、十一月の終わりでもここまで寒くないように思う。そういえば、昨晩琥珀が「明日の朝は冷え込むらしいですから、気をつけてくださいねー」なんて言っていたような気がする。
「くしゅんっ」
 またくしゃみをしてしまった。寒気が止まらない。風邪でもひいてしまったのだろうか。ここ数日、今一つよく眠れなかったのだから、ありえない話では――。なんだろう。何かが引っかかった。まあ、思い出せないということは気にするほどのことではないのだろう。まずは起きて、それからだ。

 ……失敗。いっそ、休んでしまった方がよかったのだろうか。屋敷でも学園でも、一日中心配され通しだった。せっかく明日が……だというのに。遠野の血の影響ならともかく、単に朝晩冷え込んだための風邪ではみっともない。そう思い、屋敷に帰ってからはもう元気になった振りをしようとした。その程度、普段の負担に比べれば何ともないことだから――。
「――兄さん、いいかげん食器の音をかちゃかちゃ鳴らす癖を直していただけませんか。遠野家の長男たるもの、いつまでたってもそのような無作法を続けるというのは目に余る行為です」
「う――――秋葉、今日はいつになくピリピリしていないか? それに、まだ調子が悪そうだぞ、おまえ。大丈夫なのか?」
 く……妙なところだけは勘が鋭いんだから、兄さんは。でも、それを気付かれるわけには―――
 ドウシテ、キヅカレテハイケナイノ? ワカラナイ。
 疑問が思い浮かぶが、すぐに飛んで行ってしまう。それよりも、何とか話をそらさなければ。
「話をそらさないでください! 大体、戻ってきてからあとしばらくで一年になろうかというのに――――!」
 怒鳴り散らしながら立ち上がった瞬間、来た。ふっと視界から光が消える。上下左右の感覚が消え去る。あっという間に周囲は闇へと移り変わり、天と地がひっくり返る。或いは空を飛んでいるのかもしれない。「秋葉っ!」と兄さんが呼ぶ声が遠くで聞こえたが、その時思ったことは、一つだけ。何だ、私も兄さんのことを責められないではないか。話を逸らすなと言って話しを逸らすなんて――――――





 ゆっくりと目蓋を持ち上げた。暗闇にうっすらと明かりが差し込み、視界がぼやける。それがはっきりしてくると見慣れた天井があった。私の部屋だ。今まで眠っていたのだろうか?だとしたら、先程のは夢であって欲しいと願った。
 チャポッ。
 水音が聞こえてそちらへと――ベッドの脇へと――視線をやると、後ろを向いて座る人影が目に入った。琥珀……にしては大きい。大きな背中、間違いない、これは。
「兄さん……?」
「秋葉? 悪い、起こしちまったか」

 兄さんはすまなそうに言うと、何か布らしきものを絞り始めた。雑巾……?そんなはずがない、と首を横に振った。
 くらっ。
 あ――れ―――――? どさっと上半身がベッドに倒れ沈み込む。ああそうだ。私はさっき倒れたんだった。まだ調子が戻ってきていないということなのだろう。
「大丈夫か、秋葉!」
「……兄さん、大きな声を出さないでください。頭に響きます」
 心配してくれるのはうれしいが、気の利かないのはいただけない。今のままでもいいけど、それぐらいは気付いてくれないと、私の――。
 プシュー。


「ごめん。――――どうしたんだ、顔が真っ赤だぞ。もしかしてまた熱がでたのか?」
 兄さんが私の額に手を当てた。まだ熱があるからか、兄さんの手が冷たくてどきりとした――普通は役回りが逆だと思うけど。兄さんの手が触れているのだと思うと鼓動が速くなる。私の顔はこれ以上ない程真っ赤だろう。でも、その理由を兄さんに気付いて欲しい。いや、まだ気付かれたくない。
「うん、熱があるわけでもないみたいだ。でも安静にしていないとだめだからな」
 兄さんは私の額の上に固く絞ったタオルを置いてくれた。ああ、今絞っていたのはこれだったのか。そんなことさえ思い当たらないということは、今の私は存外に弱っているのだろう。
「それぐらいわかっています。それをわかっていないのは、兄さんの方です。調子が悪いときには無理をせずに休んでください」
「分かってるよ」
 兄さんは気まずそうに頬を掻いた。一応自分が一番心配させているという自覚はあるのか。
「でも、今調子が悪いのは秋葉だからな」
 優しく頭を撫でられる。心地よい感覚。私はその快さにしばらく身を任せることにして目をつぶった。
「――ありがとうございます。――兄さん。」
 兄さんが優しく微笑んだ気配を感じながら、私の意識はまどろみの中に落ちていった。

「おやすみ、秋葉」





『秋葉様、その風邪ではお誕生会に出席なされるのは無理です。どうかお休みになってください』
『いや。私、風邪なんてひいてない。お誕生会に出る』
 だって、志貴兄さんにお祝いの言葉を言ってもらうんだから。言って欲しいんだから。志貴兄さんに……。


「志貴兄さん」

 はっと目を覚ました。暗い。まだ真夜中のようだ。
「そういうことだったんですね、兄さん」
 兄さんにお祝いを言って貰った記憶がないのは当たり前だ。その日の前後、私は風邪を引いて寝込んでいたのだから。それが悲しくて、自分が情けなくて、その頃のことを全て記憶の奥底に封印してしまったのだろう。なんだ。結局、私の自業自得でしかなかったんだ。
「あき――は――……」
「兄さん?」
 ふとベッドの脇に目をやれば、兄さんが椅子に座ったまま舟を漕いでいた。あのまま眠ってしまったのだろうか。冷えては大変だ、何か掛けるものをと辺りを見回すとカーディガンが目に入った。琥珀が出しておいてくれたのだろうか。これなら多少は暖かくなるだろう。ゆっくりと起き上がって、カーディガンをそっと兄さんに掛けた。
「う……ん?」
「起こしてしまいましたか?」
 ふぁーっ、と兄さんが大きな伸びと欠伸をした。
 ――――大きい。いつもはあまり感じさせてくれないけど、兄さんはやはり大きい。その腕に包み込まれれば、きっと何よりその大きさを感じられるだろうに……。でも、そんな思いは口には出せない。
「……あれ、俺寝てたのか?」
「そうです。そんな格好で寝ていては、風邪を引きますよ」
「今風邪を引いているのは秋葉のほうだけどな」
「そうですね」
 ふふふ、と私たちは笑い合った。
「もう寝ますから、兄さんも部屋に戻って暖かくしてお休みになってください。私はもう大丈夫ですから」
「そうか? 俺としては、まだ心配なんだけど」
 心配してくれるその言葉が嬉しい。でも、私に少しでも心配させ無いようにしてくれる方が、もっと嬉しいのだ。だから、私は話を続けたいという甘い誘惑を断ち切った。
「大丈夫です。それに、このままでは兄さんのお体が心配で眠れません」
「う……確かに大丈夫そうだな。それなら、俺も部屋に戻るよ」
 兄さんが立ち上がった。名残惜しさを感じながらも私は再び横になる。
「おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、秋葉」
 挨拶を交わすと、兄さんは扉の方へと歩いていく。しかし、その直前でふと立ち止まりこちらへと振り向いた。
「ああそうだ、秋葉、お誕生日おめでとう。それにしても、」

「「初めてですね(だな)、」」

「兄さんに誕生日にお祝いの言葉をいただけるのは」
「秋葉に誕生日におめでとうって言うのは」

 見事に声が重なった。わざとそうしたのだろうか? それとも、本当の偶然だろうか? 私の心も、兄さんと同じくらいにわからない。
「同じ事を考えてたんだな」
「そうですね。でも、私にとっては消し去りたい過去でもあるんですけどね。かなり恥ずかしい失態でしたから」
「でも、俺は秋葉が昔も今も変わらずやっぱり秋葉なんだなって確認できて安心したよ」
「……それは褒められているのか貶されているのか判断に困るのですが」
   私が困った顔をすると兄さんは急に慌て始めた。
  「いや、そういうことじゃなくて、えっと――多分、褒めてるんだと思う」
「へえ。ずいぶん言葉に苦しまれたようですが、何と言いたかったのでしょうかねえ。ゆっくりお聞かせ願えますか?」
   ジトーっと睨み付けると兄さんは後ずさり始めた。失礼な、私は別に苛めようという訳ではないのに。
  「お休み、秋葉、早く寝ないと風邪がよくならないぞ」
   兄さんはそう言うなり脱兎の如く逃げ出し、部屋を出て行った。まあ、言いたかったであろうことは分かる。私は今でも、昔と変わらず兄さんの後を追いかける一人の女の子なのだから。
「祝いの言葉、ありがとうございました」
   扉の方に向かって呟くと、目を閉じた。今日は誕生日。果たして三人は何を企んでいたのかを楽しみにしながら、眠りに就く。次に目が覚めれば何よりも楽しい一日が待っている。早く寝て体調を整え、一年に一度の特別な日を精一杯楽しませてもらうことにしよう。


 兄さん、貴方と一緒に過ごせる初めての誕生日はきっと今までで一番楽しい日になるでしょう。

 でも兄さん。一番一緒にいたい人と過ごせるのならその日は全て最高に楽しい日なのですよ。

(了)

(初版:09/22/2003)
(第2稿:01/01/2004)
(第3稿:04/05/2005)



 (後書き)
 誕生日SSとしては、よくあるネタ・ばればれの展開・無駄に長いという三拍子そろった作品になってしまいましたが、楽しんでいただければ幸いです。ちなみにタイトルは初めて投稿した際にとっさに決めたものです。でも、微妙に自身の心境ともマッチしていたりします。

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