― A VS Z!! ―


 ここは、月が近い。
 もしたった一言、たった一言で言い切るなら、この場所を表するにふさわしい言葉は他にないだろう。そびえ立つ城よりも、砂地と成り果てた周囲よりも、それを取り囲む点にそびえる山々よりもなお、天に浮かぶ球が主なのである。そして、それこそがこの地に城がそびえ立つ理由でもあった。
 城は荘厳、雄大にして生気のない灰白色でありながら一つの生き物のような存在感を誇っている。そして時折、胎動のような蠢きが空気を吐き出す。それさえなければ死んでいると感じられたかもしれない。だが現にこの城には主がいる。そうでなければ、男はこの城へ向かうことはなかった。
 男は既に老齢と呼んで差し支えのない外見をしている。遠目に見れば、年の割に背筋の伸びた老人だとしか見受けられないかもしれない。だが、男のその瞳は力みなぎる蒼色に輝き、真っ直ぐな意志を感じさせる。それはどこか若者にも似た、ある種の幼ささえ感じさせるようなものだった。そんな男の目的はただ一つ。城の主たる月の王を滅ぼすこと、それだけである。
 男は城の前で一旦足を止めて己の持ち物を確認した。敵前で立ち止まるというその行為は大胆不敵でもあり、同時に敵を前にして余念無く準備を整える繊細さを示すものでもある。ただし、それが今の状況下で意味を成すかどうか。なにしろ男は月の王を相手にしようというのである。月の王とは其の名の通り月の全てを支配した王のことに他ならず、その力の前には人間風情がどれだけ入念に準備を整えようと簡単に潰されて終わりであろう。だというのに男の瞳に敗北の可能性に対する憂いはない。無論、男は勝つつもりなのである。そしてそれが、城の主には気にくわなかった。

 男は城内へと歩みを進める。城はそれ自体が生きているかのように呻りを上げ、歓迎の意を示していた。自身の侵入が既に把握されていることを意味しているからだろう、自然と男の足取りは慎重なものとなる。しかしその顔にはまだ余裕を通り越した笑み。児戯に等しい歓迎が男にとっては愉快で堪らなかったのだ。だから男は嗤う。
 大広間を一つ抜け、男は少し落胆した。前座となるべき余興が、一つも用意されていなかったからである。死徒、あるいは真祖――むしろ魔王だろうか――を差し向けてさえこない。地球に対して悪として振る舞うのなら、それらしく愚かな手下を向かわせればいいものを。これでは悪党退治らしさがまるで出ないではないか、と男は嘆息した。だが、そんな彼の余裕は次の扉を開いた瞬間に吹き飛ぶ。

「――――――ようこそ。脆弱なる者よ」
 正対する玉座から発せられた声は、それだけで男を吹き飛ばしそうな力を秘めていた。
 ――これが、月の王か。
 玉座から立ち上がるだけで、世界が震えた。
 睨むだけで、世界が刻を止めた。
 ――なるほど、これが月の王――――。
 金色の髪をなびかせながら月の王はゆっくりと玉座の階段を下りる。その挙動一つ一つが世界に影響を与えていく。月そのものでありその代弁者でもある王は、この世界に等しい。故に世界は畏怖し、人々は恐怖したのだ。特にその来訪を歓迎したはずの世界は、王が対抗すべき悪魔と同等に危険な存在となったことに気付き絶望していた。生み出そうとした星の王は悉く欠陥を抱え、違う試みとて既に受け入れてしまった王に対しては有効に働かない。いつかは倒せるかもしれない、だがそれまでに食い尽くされかねない。それが今の王と世界におけるパワーバランスだった。だからこそ王は目的を急ぎ、世界を屈服させようとし――男を怒らせた。
「その振る舞い、いささか目に余るが――汝の無謀にも、それなりの敬意を表そう」
 月の王はゆっくりと階下の男に向かい、歩みを進める。かつて月の王はその取るべき姿として『ヒトの平均』を模索した。それはヒトの原型にも繋がる道標、故にヒトを律するに相応しいと考えたのだ。そして、ヒトの平均とはヒトが理想とする容姿でもある。つまるところ、月の王の顔はこの世の者とは思われぬ美しさを持っていたのだ――その顔が残虐な愉悦に醜く歪んでさえいなければ。だがそれだけでもヒトに十分な恐怖を抱かせる。さらにその瞳はプリズムであるかのように虹色に輝く。視線だけで何もかもを破壊し尽くすことも不可能ではない、とまで思わせる魔眼はやはり至高の神秘である。
 空気がビリビリと震え、威圧感は短くなった距離の乗数で増していく。城に入り込んでしまった空気でさえ悲鳴を上げ逃げまどう中、さすがに男も気圧されるのを感じた。既に余裕など消え失せている。

 世界を相手にする。

 男自身、一度その道を通らなかったわけではない。だが、その時の道に生えていたのが荊だとするならば、今通らんとしている道は道そのものが荊で出来た綱である。切れても、落ちても終わり。
 しかし男は怯まない。月の王に対する気にくわないという気持ちの方がずっと男には強く、それが男の感情を支配していることに変わりはない。だから男は引かない。哀れみ蔑む月の王の視線を、冷めた目で睨み返した。
「それはありがたいことじゃが……さて、どうするというのかね? 冥府の王よ」
「決まっておろう。私直々に汝のような戯けを滅ぼしてやろうというのだ、脆弱なる者よ」
 月の王は何気ない動作で腕を横に一閃する。しかし、それだけで世界は切り裂かれた。余りある魔力は奔流となって指先から解き放たれ牙を剥く。そんな月の王にとっては児戯にも等しい一撃はしかし容赦なく、ヒトの身を百度殺してなお余りある破壊力を秘めていた。
Der Stahl! Der Shild, verteidigen den Fang Sie!(鉄よ!盾よ、牙を防ぐ盾よ!)
 瞬時に男は盾を練り上げ、刃を迎え撃つ。衝突は一瞬。
「……ヒュー」
 流石の男も息を漏らした。とっさに出せた防壁としては最高のものであったにも関わらず、男の盾は月の王の戯れの一撃と相打ちとなったのだ。つまり、本気の一撃を繰り出されれば男に勝ち目はないと言うこと。
「恐怖せよ! 喚け、嘆け、叫べ、狂え、泣け、足掻け!」
 月の王は腕を軽く振りかぶる。――世界が、凍りついた。
 月の王が動いた、と見えた瞬間には男は飛び退いていた。同時に再び盾を眼前に張る。だがその時にはもう、月の王は眼前に迫っていた。
 そして、衝撃。

 何気なく繰り出されたはずの月の王の拳は、軽々と男の生み出した盾を粉砕する。腕そのものはそこで止まったが、衝撃波は止まることを知らない。男は衝撃波だけで軽々と吹き飛ばされた。ぐっ、と呻きながら男は思考する。
 ――このままではまずい、吹き飛ばされた角度が高すぎる。壁に激突すれば追撃を食らってお終いだ。ならば。
Das ist groß.(加重)
 男が最初に展開した魔術は、自身に対して強力な重力を働かせるもの。思惑通り急激な放物線を描き、男は地面へと吸い付けられるようにその高度を下げる。これにより、男は大広間から先程開け放った扉へと吸い込まれ――
Das ist klein, und schweben Sie!(軽重、浮上)
 続けて逆の重力を弱める魔術を展開。地面へ叩きつけられるはずだった男の体は急激にその勢いを失う。まるで空を飛ぶかのようにふわりと浮き上がると、衝撃を大きく減らして地面を転がった。だが、それでも。片膝をついて立ち上がろうとする男の口の端から、血がこぼれ落ちた。
「……愚かな。いくら脆弱なるヒトとて、其の身で適わぬ相手ぐらいしれようものを」
 月の王がゆっくりと歩き、門をくぐる。しかし、男は恐怖の色を見せない。それどころか口の端をつり上げ、ニヤリと笑みを返した。
「なに、この程度どうと言うことはない。お前をこちら側に引きずり出しただけじゃ」
「……ほう。何故、そのような真似に至った」
「無論、お前を倒すため」
 そう、月の王を倒すためには、月世界からこの世界へと引きずり出す必要がある。相手のホームグラウンドで正面から戦おうとするほど男は愚かではない。さらに、月の王を疎ましく思う抑止からの力添えも期待できるかもしれない――男はそれを微塵も望んでいなかったが。

 舞台は調った。演舞者は王と道化。だが道化は道化故に手札を隠し持つ。その手札、果たして通用するのか。月が、世界が、その様子を静かに見守っている――――。



 先に動いたのは男だった。先程の月の王もかくや、と言わんばかりの速度で肉薄する。その動きは洗練されていて無駄がない。最短距離で、最大の破壊力を持って拳が放たれる。だが月の王は眉一つ動かさず避けてしまう。そして左半身の体勢から右手を再び水平に振るう。男は身を屈めてかわし、飛び退った。
「どうした? その程度で汝はこの身と戦り合おうと思ったのか?」
 月の王の嘲りが世界を震わせる。だが男は動じない。月の王は不快そうに表情を愉悦から変えた。そして、月の王が動く。
 初めは正面からの正拳突き。サイドステップで避ける。右手がそのまま横になぎ払われる。バックステップ。左手で袈裟に殴りかかる。体を反らしてかわす。首を狩りに来るハイキック。しゃがむ。踵が稲妻のごとく落ちる。横っ飛びに避ける。転がったところを踏み抜きに来る。ヘッドスプリングで跳ね起きかわす。勢いに任せた左フック。大きく飛び退る。
 距離が、開いた。
 男は荒い息。魔力と魔術で極限まで身体能力を高め、さらに衝撃波に対して常に防御結界を張り続けてさえ、避けることが精一杯だった。しかし、これで月の王が本気というわけでもないだろう。それを証拠に。
「なるほど、先程のは様子見というわけか。脆弱な者ほどほとほとよく囀るものだと思っておったが、あながち嘯いたわけでもないのだな」
 男に対し、素直に賞賛の言葉を贈っていた。男の額を一筋の汗が伝う。
 再び月の王が動く。先程よりも、疾い。
 右手からのフック。左に流れかわす。続けざまの右回旋脚。跳んで避けようとし――切り替え、後方に下がる。先程までいたところの上方を左踵が通り抜けた。硬直を狙い魔術を放とうとし、すぐさま切り替え右に跳ぶ。豪腕が地面を砕く。再び左。手の力だけでミサイルのように蹴りが飛んでくる。右、左、左、右、左、右、右、右、左――予測されぬようパターンを変えながら、左右に前もって男は避ける。月の王はそれを楽しむかのように次々と攻撃を繰り出す。月の王の方が遥かに無駄が多いというのにその速度は互角。この時点で月の王にとってこれは戯れでしかない。
 月の王は実際、悦にいっていた。単体では取るに足らぬ存在と思っていたヒトがこれほどまでに善戦するのだ。退屈しのぎとしては悪くない。だが玩具は壊れるまで遊んでこそ玩具。その瞬間を想像し、月の王は震えるような喜悦を感じた。
 月の王はさらに速度を増す。跳び膝蹴りが視認不可能な速さで繰り出され、爪が肥大化した腕を振るうだけで衝撃波が次々と跳ぶ。漏れ出る魔力が次々と周囲を破壊し、男はただ下がり、避け続けるしかない。
「どうした? 掛かって来ぬなら潰すぞ? どうした? ほれ、どうした?」
 月の王は喜悦にさらに口の端を吊り上げる。振るわれた腕から放たれる衝撃波だけで、既に男は圧倒されていた。掠るだけで男の皮膚が裂け、肉が抉られる。ほんの数瞬で男は満身創痍となり、動きが鈍りはじめ……。
「ヒトにしてはよくやった。一瞬で終わる、安心してその五臓六腑を晒すがよい」
 月の王が振るった右手からの衝撃波が、袈裟に男を捉えた。男は容赦なく吹き飛ばされ、そのまま森の中へと突っ込む。ぶつかった齢数百年はあろう大木がへし折れ、男の身は地面に投げ出された。
「……ふむ、まだ生きておるのか。存外に生き汚いものだ」
 月の王は呟くと、先程にも増した魔力を乗せ、次々と衝撃波を森に向けて放つ。一撃一撃で森の木々は折られ倒され荒れ果てる。緑の瓦礫の間から茶色い墓標が顔を覗かせる死の世界。そこには月世界が再現されつつあった。
「何故、汝は私に敵対するのだ? 見知らぬヒトに刃向かわれる覚えなど無かったが」
 世界が怯え、震える。夜半の空気は凍てつき、月影を受けた蒼が一層色を深めた。
「……第三位と、第四位」
 男は姿を隠したまま。そして答えは、月の王にとって非常に興味深いものだった。
「もしや、アレらを処分したのは汝であったか。なればこの身を狙うも道理か」
「二十七祖。お前が何を狙っているかまでは儂にはわからん。じゃがな」
 ざっ、と音がして男が姿を現した。――月の王の、背後へと。
「それが気に喰わんことだけはよくわかった!」
 男は大砲の如く、周囲から集めたマナを爆発させる――!



 小細工も何もない、ただ集めた魔力をそのまま破壊のエネルギーに変換するだけのシンプルな一撃。しかしその威力、タイミングは共に必死であった。相手が、月の王でさえなければ。
 跳び退りながら、エネルギーの奔流を月の王は左手で受け止める。威力を抑えきれず、爆発に巻き込まれた左腕が砕け散った。しかし即座に修復、この程度のダメージならば月の王にとってはかすり傷にしかならない。ならないのだが――
「……何をしたというのだ? 汝の行動、全てが有り得ぬ。なおかつ私に傷を付けようとは――」
「思い上がったようじゃな、月の王よ。人という種は、脆さを補う術を持つものでな」
 身体を、自尊心を痛く傷付けられた月の王は憎悪に顔を歪ませた。余裕は既に吹き飛び、鋭い目が睨め付けるように男を捉えている。だが男は飄々としたもの。視線だけで心を砕かれそうな虹色の睨みを平然と受け流し、次なる動きに備えている。
 膠着を破ったのは月の王。男に向けて腕を振るう。禍々しい爪から生み出されるのは、真紅の環状衝撃波。明確な殺意を持って放たれた刃が瞬く間に男に迫る。だが、男は笑みを見せるとその姿をかき消した。血の色をした輪はそのまま通り過ぎ、遠い森を破壊する。同時に男は月の王の左後方に姿を現した。
「空間転移か。難儀な力ではあるが……」
 月の王は先程同様その力を振るう。闇夜が切り裂かれ、世界が悲鳴を上げた。だがその攻撃もやはり男には届かない。男は姿を消すと月の王を嘲笑うかのように左斜め、遥か後方に姿を現した。その距離は反射神経で月の王が詰めるには微妙に遠く、それでいて男が魔術を使うには十分な間合い。苛立ちを隠しきれず、月の王は再びその腕を振るう。再び生まれる真紅の刃は、またも届く直前で男に姿を消され無駄となる。
 月の王はさらに苛立ち、四方八方、縦横無尽にその腕を振るい、牙を剥く。その度に世界の金切り声が轟いたが、男は姿を消しては現れることを繰り返す。右後方、右、左前方、右後方、真後ろ、左後方、右横、左後方、後ろ……月の王が予期し得ぬ安全な場所へ、男は次々と姿を現し魔力を放つ。一撃一撃が大砲じみてはいるが、それでも月の王に与えられるのは掠り傷程度でしかない。だが、着実にほんの僅か、ほんの僅かではあるが月の王の力を削いでいった。

 月の王は初めて焦燥感に至った。例えこれをどれだけ続けられようと、月の王の負けはありえないにもかかわらず。そもそも存在規模が違いすぎるのだ、蟻に噛まれたところで象は痛みを感じることさえないだろう。だが、この一方的に傷付けられる状況。今までになかったことに、月の王は初めて焦りを覚えたのだ。
 月の王は気付いていない。男が人には為し得ない神秘を行使していることに。そう、攻撃が当たらないのは空間転移によるものだけではない。必要な魔力の供給元、それは並行世界と呼ばれる合わせ鏡の中なのだ。さらには本人もそういった高次元の存在として行動している今、月の王の攻撃が当たるはずがない。紙の上に書いた線が書いた相手に向かい伸びることは不可能だ。
 だがしかし。そうした人を越えた結果を生み出すためには、当然代償が必要となる。気付かれぬよう振る舞ってはいるが、男は魔力を、生命力を大量に消費し続けている。その反動もまた、男の体を傷付けている。移動すれば筋肉が千切れ、魔力を放てば血管が吹き飛んだ。神経は焦げ付き、脳は焼き切れんとし、五感は狂い叫び声を上げる。
 結局の所、このまま戦い続ければ月の王は決して負けないのだ。消耗戦においては、無限とも呼べる世界を有する王に敗北はない。だが、月の王はそれに気付かなかった。故に月の王は焦る。
 月の王は、絶対的すぎた。あまりにもその力が大きすぎたのだ。そのため月の王は知らなかった。脆弱な存在でしかない、群としてしか強固とは呼べない生物が持つ可能性を。人が、その命を削ってでも自身の力を越えた何かを成し遂げようとすることを。人は時に己が命すら擲ってでも人の力を越えた結果を生み出そうとする。

 力を持つが故に、代償と引き替えに限界を超えるということを知らなかった。それが月の王の悲劇である。
 そして逆に言うならば。人は、己を犠牲にしてでも己が力を越えた何かを成し遂げる。一人で扱える限界では望みに至れないから、自身を引き替えに何かをもたらす。自己犠牲を伴う、限界を超えた等価交換。それこそが男の言う術。脆弱であるが故に至った、力あるものには為し得ぬ、奇跡。
 それを人は魔術と呼ぶ。魔術回路という人が持ち得ない神秘を発展させ、己が生命力を魔力という形に変換し、限界という物に無をもたらす、それが魔術。
 そして今ここにいる男が引き起こす現象、成そうとしていること。今を生きる全ての人々が無限の時間と資材を費やそうと不可能な結果を引き起こす、奇跡の中の奇跡。

 その名を、魔法という。




 月の王は気付く。四方八方に向けて攻撃していたはずの自分が、逆に四方八方からの集中砲火を浴びていることに。同時に襲いかかる魔力の奔流、光の断層、爆発、灼熱。
 ――まさか、多重同時存在だと――!?
 月の王はいつしか、数十名の同一存在である男に取り囲まれ、集中砲火を受けていることに気付いた。
 有り得ない現象に、月の王は恐怖心を抱く。これもまた、今までに感じたことのないもの。壊れては再生していく体を見て、決心した。

 月の王は跳び上がり、そして空に浮かんだ。
 背後には、真円の、深紅の月。

 突如として囲みを抜けた月の王を見て、男は次々と姿を消す。瞬く間に、男は元通り一人だった。見上げると、朱い月を背景に月の王が浮いている。
 ――バカな。朱い月じゃと……?
「褒めてつかわそう。汝は私を傷付けるにとどまらず、恐怖心さえ抱かせた。褒美に――

 真世界(つき)をくれてやろう。

 なに、恐怖することはない。この世界(ほし)もいずれはアレと同じ世界になろう。私が支配する真世界。それを事前に知ることが出来るのだ、光栄に思うが良い」
 月の王が片手を挙げる。空が、震えた。
「避けても構わぬ。逃げる場所があるなれば、ではあるがな」
 手が振り下ろされる。それが合図。

 月が、落ちてくる。

 月落とし。月の王たるからこそ出来る、一つの世界を滅ぼす行為。既に滅びた世界をぶつけてこの世界を蝕もうというのか。
 月落とし。それを目撃したものは、皆震撼した。ある者は発狂した。ある者はひたすら逃げ出そうとした。ある者は絶望して身投げし、ある者は神に祈った。見えるような場所では、逃げだそうと無意味だというのに。助からないにもかかわらず、人々はパニックに陥っていた。
 男もまた、焦りを覚えた。おそらくこれは、今の月の王が全力を投入した攻撃だろう。それゆえ、規模が有り得ない。男自身は並行世界に飛べば助かるだろうが……それは出来なかった。
 男は心を決め、懐から一本の剣を取り出す。刀身が宝石で出来た剣。太い棒にも似た、短い、おおよそ剣と呼ぶにはにつかない物だが、確かにそれは剣だった。宝石剣、後に男の名を取ってゼルレッチと呼ばれるそれは男の愛剣。
 獣の如く叫び声を上げ、気合いを入れる。月の王は勝ち誇ったような表情を崩さない。だが、僅かたりとも嘲りや哀れみさえ浮かべぬ時点で、十分月の王は押されていたとも言える。その境界は曖昧。月の落ちてくる夜、男の咆哮だけが闇を揺らす。

 宝石剣。それは本来男にとって必要なものではない。第二魔法である並行世界への干渉、それを可能にする扉の役割を果たす物でしかないからだ。多少魔力の消費量は違うものの微々たるものであり、魔法使いである男にとって気にするほどのものではない。
 だが男は宝石剣を使う。それしか、道はないと言わんばかりに。

 月の王は世界を見遣った。今、この手に収めんとしている世界。後悔はある。本当はこの美しい姿のままで手に入れたい。だがそのまま掌中の物とするには大きすぎた。だから、月を落とす。
 月世界。白銀の死の世界、それを月の王は真世界と呼んだ。生命の存在すら許されぬ世界。過去より人々は、そのことを敏感に感じ取って月を死者の国とみなしてきたのだろうか。それとも、月の王の存在がそうさせたのか。いくら記録と記憶のひもを解いたとて、定めることは叶わぬ、夢限の命題。
 真世界の降臨は間近。それをよしとせぬは、一人の魔法使い。
 視線を戻した月の王は気付いた。男の魔力が桁違いに膨れあがっている。その量は、あろうことか……既に月の王の限界をも上回っている。天地をひっくり返さんとする者が、まさに驚天動地といった様相だ。虹色に輝く瞳が、恐怖一色に染まった。
 男は並行世界から魔力を引き出し続ける。無論、それのみでこのような真似は出来るはずがない。自身の許容量を超えた瞬間、体が破裂して終わるのがオチだ。
 だが男は僅かに表情を苦しげに歪めたのみ。崩壊の足音は響こうとしない。

 男の手にある宝石剣。これの真価は、男が持った時に初めて発揮される。
 ――鏡。
 そう、それはまさに鏡に他ならない。合わせ鏡の向こうを覗くためのマジックミラー、それはやはり鏡なのだ。そしてまた、魔法を使う男自身もその体を鏡と化す。ここに再現される合わせ鏡。男は自らの肉体と宝石剣を共鳴させ、一つの増幅装置へとその在り方を変えているのだ。後に生まれる言葉を利用するならば、そう。

 ――万華鏡(kakeidoscope)

 後に彼の二つ名となるこの言葉の由来の一つ、その意味がここに顕れた。

 月の王が動揺を露わにした瞬間。その瞬間が、男が必要な魔力を共鳴させ終えた瞬間でもあった。落ちてくる月を背にした月の王。逃げ場は、無い――!

Das ist unendlich, das ist sich gegenüberstehende Spiegel. Es läßt frei. Eine Salve!(無限なりし合わせ鏡。解放、斉射!)

 男が放った光の矢――その巨大さは大砲と呼んでももの足りぬモノであったが――は月の王を飲み込み、その下半身を吹き飛ばすとそのまま月へとぶつかった。引力と、落下意志と。その二つの力を得た月を、膨大な魔力が爆ぜて押し返す。
 二秒。
 ――僅かに押されている。
 五秒。
 ――――膠着状態に入った。
 十秒。
 ――――――押し戻している!
「ぬおぉおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 そして、十五秒後。
 ――――――――光の柱が消えた瞬間、男がその力を使い切った瞬間、月は本来の位置に戻り、もう動くことはなかった。

 月落としは、たった独りの男によって防がれた。



「ふぅ――」
 男は月が元の位置に納まったのを見届け一息吐いた。自然と肩の力が抜ける。無理もないだろう、男の成し遂げたことはそれだけ有り得ないことなのだから。反動で体内はぼろぼろ、魔法使いといえど天命に逆らえるわけでもない。朱い月は去った。この世界だけの黎明が訪れる時も近いだ、ろ――――?
 ぞぶり、と首筋に何かが食い込む感触。鋭い杭が首に突き立つのを男は感じた。瞬時。
 これ以上ない略奪が、搾取が、始まった。
 男は呻き声を上げながら地面に倒れ込む。その首筋に、上半身のみの月の王が噛みついていた。鋭く尖った吸血種特有の犬歯はやはり杭に他ならない。穿たれた穴から容赦なく血液を飲み干される。強烈な喪失感と、全身の血液が全て毒素に変わってしまったかのような痛み。意識が白く飛び、黒く沈む。地獄の業火とて、これほどその身を焼き尽くすことはできまい。刹那に男は永遠よりも永い苦しみを味わされた。
 残滓を振り絞り、男はその肘を月の王であったモノにぶつける。たったそれだけで月の王の体は転がった。しかし毒素はその肉体を、その魂を、その精神を蹂躙する。月の王は上半身のみとなったその体を持ち上げ、男の苦しみを視界に捉えて狂笑し――
 ――光の奔流の中に、消滅した。
 Eine Salve nochmals(再度、斉射)、それが残された響き。呪縛のような苦しみと精神支配、それらに耐えながら男は、倒れたまま月の王にとどめの一撃を放ったのだった。



 ――――それから幾十の昼と夜が過ぎ。
 ぼろ屑のように成り果てていた塊が、むくりとその体を起こした。男だ。
 男は、その気力だけで全身を巡る毒素を克服した。一般的な真祖など比較にならない月の王の支配とて、男にとっては気合いの問題でしかなかったのだ。だから、数日で男は動けるところまで回復した。

 男はその紅い瞳で見上げる。
 空には、深紅の月。まるで朱い月のよう。
 浮かんだ色、それは空白。

 月の影に濡れる城は既に滅び。

 夜の住人は微かな闇にその姿を溶け込ませた。




 (了)


(初版:12/23/2004)


 (後書き)
 正直に言いますと、やっちゃったなという感じです。お分かりの通り、Aは朱い月のことを、Zはゼルレッチの事を指します。月落としを防ぐのがなんで宝石剣なのかな? という疑問から書いた作品ですが、楽しんでいただけたならば幸いです。

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