「秋葉さま、よろしいでしょうか?」
 ノックと共に翡翠の声がドアを通して響いてきた。慌てているようで落ち着いた声。その声色だけで秋葉は、ああまたか、と独り嘆息した。
「入りなさい、翡翠」
 声とどちらが早かったであろうか、失礼します、の一言と共に翡翠が部屋に入ってくる。そして開口一番告げられる言葉は、やはりいつも通りのものであった。
「アルクェイド様が、また……」
 いつの日からであっただろうか、毎夜の如く、一日たりとも欠くことない程に秋葉が聞かされた言葉。だがその意味合いは、既に大きく変わってしまっている。辛そうな面持ちの翡翠を見て、秋葉は表情を崩さないよう努めた。私は崩れるわけにはいかない、と。だがその瞳には微かに哀れみが浮かんでいる。今の彼女には、感情を隠し通すほどの余裕がないのだ。
「放っておいてあげなさい。兄さんが……。

 兄さんが亡くなって誰よりも辛いのは、他ならぬ彼女でしょうから」

 隠しきれないやりきれなさに、どこか言葉が震えていた。



     /ココロノイロ/



 主を失った部屋。しかしその様子はかつてと大きく変わらない。決して帰ることのない持ち主のために今でも掃除が続けられているのだろうか、部屋には塵一つなかった。それを成しているであろう人物はただ一人しかいない。ある意味狂気まで言えるほどの、この部屋の主に対する忠節。だがしかし、彼女は気付いているのだろうか。塵一つ無い部屋という異常こそが、この部屋の主の不在をよりはっきりさせてしまっているということに。そう、つまるところ。
 部屋そのものが死の中に在った。
 窓が開かれ、夜風が僅かにカーテンの裾を靡かせる。微かに月影が射す部屋の中、白い人影がただ一つ、その傍にぽつりと立っていた。アルクェイド。真祖の王であり吸血鬼の頂点に立つ力を持つ彼女は、しかしその経験のなさ故に心が脆くか弱かった。
 彼女に感情を、世界を、そして幸せを教えた少年は、彼の岸に旅立ってしまった。その事実をまだ完全に受け止めきれないのか。彼女は毎夜のように主を失った部屋を訪れ、しかし表情はぞっとするほどに色を成さぬまま、悲嘆に暮れていた。

 ――――どうして、世界はこんなにも不安定であやふやなんだろう。
 あんなにも楽しかった日々はあっという間に消えてしまった。あんなにも色づき輝いてた世界は色を失ってしまった。あんなにも感じてた幸せは、今はもう――感じられない。まるで手の平ですくった砂のよう。留めようとしても、隙間からこぼれ落ちていく。止められない、流れ。心は空っぽになるばかりで、埋められることは、決してない。
 なんでもないような、無駄にしか思えないようなことが楽しいんだって志貴は言った。わたしも、そうだと思ってた。事実、志貴と一緒に過ごした日々はまさしくそうだったんだけど……。もう、楽しくなんてない。
「志貴の、嘘吐き」
 無駄なことが楽しくて幸せだっていうんなら。
 どうして、志貴に会えないと分かってて志貴の部屋に来るのが、こんなにも悲しいの?

 答えが返るはずはなかった。

 

 夜明けが近づいて、アルクェイドは独り自分の部屋に帰った。扉を閉めればその音はあまりに無機質で、しかし彼女はそう感じる余裕さえ失っている。少年の存在によってもたらされていた生活感、主とあまりにもかけ離れた、それでいてどこかお似合いだった感覚は部屋を離れた。無機質な現在、何も変わらない、停滞しかない日々。それは他ならぬ彼女から滲み出たものであり、しかしながら――それとも、それ故にだろうか――彼女にとってもっとも忌むべきものの一つである。だというのに彼女は変われない。なぜならその原因は彼女の手に余るもの――――志貴の死を受け止めれば、彼女の心も死を迎えるだろう。だから、彼女は崩壊の一歩手前で止まり、無為な日々を繰り返す。
 おそらく志貴はそんなことを望んでいなかった。それはアルクェイドにもわかっている。それでもどうしようもないのだ。志貴は、彼女にとって全てだった。志貴がいるから幸せだったのだし、志貴がいるから無駄に満ちた日々が輝いていたのだ。甘さの裏にある苦さも同時に知っていたなら、人は失ったものにも耐えられる。だが不幸なことに、彼女が初めて知った幸せはあまりに甘美で、それゆえ対にあるものが彼女の限界を超えてしまっていたのだ。
 自身が無機物にでも変わっていくかのような錯覚を覚え、彼女はベッドに潜り込んだ。かつて志貴と共に長い夜を過ごした、もっとも彼の温もりが残っていそうな場所の一つ。そこで眠っていたら、志貴がいつものように起こしに来てくれるのではないだろうか。夢物語だとは分かっていても、そんな甘い妄想を捨てることが出来ない。ありえないなんて分かりきっている。それでもそう信じ、志貴の夢を見ようと……。

 しかし、そんな夢を見ることさえ、今の彼女には出来なかった。
 大きすぎる心の空隙はもし夢によって埋められれば、そのまま中に彼女を閉じこめかねない。その時彼女は夢の世界に閉じこもり、現実世界の住人ではなくなってしまうだろう。だがそれをしてはならないと、彼女の中の彼女ではないものが叫ぶ。
 それは裏切りにも等しい行為だ。なぜなら彼女ではない彼女の役割はそれを引き起こすことなのだから。だがそうでもして妨げなければ、彼女ではない彼女は、本当に見たかった結末を見ることが出来ないまま本来あるべき姿に戻ってしまう。それだけはどうしても避けたかったのだ。
 ――――かつて、遠野志貴はアレを解き放つと言いおった。だというのに、ヤツは何をしておる。
 世の中、何事であろうと思い通りには行かないものだ。それは彼女ではない彼女が『彼』であった頃にも思い知っていること。それでも待ち続けるのはきっと、純粋に。遠野志貴という存在に、惚れ込んでいたということに他ならないのではないだろうか。
 だからだろう。本来あるべき自身という存在を裏切り、否定してまで、彼女ではない彼女は変化を待ち続けていたのだ。



 その夜琥珀はふと屋敷の外に出て、意外なものを見た。いつものように夜の見回りを終えた後、部屋に戻る前になんとなく気になって外へ出た時のことだ。庭に立つ独りの人影。その白さ、その孤独さ。それはアルクェイドに間違いないのだが――何故か、志貴の部屋を見上げたまま動かない。今までになかった光景、いつもは視線の先にある部屋に真っ先に飛び込むというのに。何かに邪魔されているのだろうか、だがその理由に彼女は心当たりがなかった。躊躇っているのだとしてもその理由も分からない。そこで彼女はしばらく様子を見守ることを決めた。
 冬の夜気はいよいよ寒さを帯び、体温はむさぼり取られていく。氷で出来た蛇が指先から飲み込んでいくかのように感じたが、それでも琥珀は動かない。何が起こるのか、その一瞬たりとも見逃してはならないと直感が叫んでいたのだ。そして、彼女は見た。アルクェイドが去る直前、ほんのわずかに見せた表情を。そこに浮かんでいたのは……諦めと、絶望。志貴が生きている間はもちろんその後も一度も見たことがないもの。天真爛漫という言葉がもっとも似合うはずの彼女とは、縁がなかったはずの表情だった。

 ――――もうだめ、なんですかね。
 今の一瞬は、間違いなく一つの変化だった。それも多分、最悪の変化だ。志貴の死以来破滅へと転がり続ける周囲。耐えられなかったのはアルクェイドだけではない。秋葉も翡翠も、同様に耐えられなかったのだ。それでも二人はまだ今までのように自分を保てていた。それはより悲嘆に暮れる存在――アルクェイドの存在があったからに他ならない。現状は言わば切れかけたザイルに繋がる人々のようなものだ。周囲から、あるいは自分から手を加えるまでもなく……ちょっとした弾みで、全ては終焉へと落ちてしまう。
 志貴さん、あなたは本当に酷い人です。きっとアルクェイドさんはもう耐えられないでしょう。そうなれば秋葉さまも翡翠ちゃんも壊れてしまう。そのときは、おそらくわたしも……あなただけでなくこの二人まで失ってしまえば、呆気ないほど簡単に崩れてしまうでしょうから。あなたはそうなることに気付かなかったんですか? それとも、気付いていながら皆を置いていってしまったんですか?
 体は芯から冷え、指はかじかみ強張ってしまっている。そんな動かぬ指を無理に握りしめ、唇を噛んだ。そうさせてはいけないと強く感じた。部屋に戻りながら、何かできることがないかを考える。だが、妙案は思い浮かばなかった。ぼんやりと部屋を眺める。ふと視界に留まったものを見て思った。
 ――――もう、こんな日だったんですか……。そんなことも忘れちゃってたんですね。
 溜息を吐きながら願った。何か、良い方向に変わるきっかけがありますように、と。

 

 とうとう今日は、部屋にさえ入ることが出来なかった。志貴がいないことをまた思い知らされるだけってことがわかってる。だから……それを受け入れてしまうことが怖かった。
 志貴がいないなんて想像したくない。
 志貴がいる姿が想像できない。
 もっと人みたいに心が弱ければよかった。狂ってしまえば、それこそ二度と復元できないほど自我を崩壊させてしまえば、わたしは苦しまなくて済むというのに。消えてしまいたい。何も考えたくない。こんな辛く苦しい、痛い心なんて知らない方が良かった――――。
 ベッドに倒れ込む。意識が混濁し始め、思考がままならなくなる。このままでいい。そうすれば、もう哀しい思いをしなくて済む。志貴のいない世界なんて地獄を思い返さなくて済む。
 ――――ばか。
 罵倒しても意味なんて無い。
 ――――志貴のばか。
 でも、それしか言い表す方法がない。
 ――――しきのばかっ!
 いくら志貴の名を呼んでも何も変わることはない。相変わらず心は穴が空いたままで、次々と氷が詰め込まれ痛みと共に閉じていく。全ては閉塞に向かい、最後の灯火も揺らめき、色あせ、力を失っていく……。



 ふわり、と部屋に気配が一つ現れた。その気配はこの部屋にも、その主にも馴染みがあるもの。いつの間にか消えそうな儚さと、確かな力強さと。濃密な死の匂いと、包み込む優しさと。両立し得ないような、対極に思えるものを同時に持つ気配だ。その気配が意味するものは一つしかない。それを彼女は瞬く間に理解した。
「志貴!?」
 アルクェイドは跳ね起きる。その気配は間違いなく遠野志貴のものであったのだ。それはありえないこと。それは夢見るように願っていたこと。
 だが、彼女の視界には何者も映らない。視覚聴覚嗅覚、人より遙かに優れた感覚をもってしてもなお捉えられる変化はない。それでもたしかに感じるのだ。遠野志貴がそこにいる、と。
「志貴……?」
 疑問は返る答えを持たず、宙を漂い消える。しかし、存在感といったものは間違いなく其処に在った。何かに取り憑かれたように、アルクェイドはその気配へと歩みを進める。その足取りはしかし確かで。自身が正気であることに、彼女自身が驚いていた。
 おそるおそる、存在に手を伸ばす。たしかに何もないのに、触れることも出来ないのに、そこには温もりがあった。ああ、どうしてその温もりを忘れることが出来よう? それは間違いなく、遠野志貴と触れあった時に生まれる温もりに他ならなかったのだ!
 幽霊ではない、なのに存在する不可思議な存在。それはたしかに目の前にあった。
 アルクェイドはおずおずと両の手を、存在を抱きしめるかのようにまわす。感触はなくとも、疑いようなく触れる温もりがある。ありえないことに、やはりそれは志貴とのふれあいの中で常に感じ続けたモノと同じ。あることがわからないほど軽く手ごたえのない風船。でも、暖かい。それが彼女の持った印象だった。そう、その空虚な風船は、信じられないほど暖かい。いつの間にか彼女の心は落ち着いていく。
「志貴……だよね……?」
 問いかけに応える言葉はない。代わりにあったのは一つの変化。温もりだけの空気があるはずのない手で彼女を抱きしめたのだ。やはり感触などは一切なく、伝わるのはただ温もりのみ。しかしそれが肯定の意であることは明白だと、そう彼女は感じた。途端、涙が溢れ、顔が歪んでしまう。本当は志貴が特に好きだと言ってくれた、笑顔の方を見せたいのにと、そう思いながら。

 幽霊でもない、何なのかまったくわからない存在になっちゃったけど。
 それでも、志貴は帰ってきてくれた――――

 

 ぼんやりと目蓋を上げる。いつの間に眠ってしまったのだろう。たしか、さっきまで――――。
「志貴!?」
 見回しても気配はない。相変わらず誰もいない、ひとりぼっちの部屋。
「往っちゃったのかな……ううん、初めからいなかったのかな」
 たぶんそうだ。昨日のが夢か現実か。そんなことは分からないけど、どっちにしても志貴がいたはずがない。死んだものは帰らない、それは自然の理なのだ。なら昨日の出来事は何だったのだろう。夢かうつつか幻か――ああ、この言葉もそういえば志貴が教えてくれたんだったような気がする、日本の古い言葉だって。そうして出掛かった疑問は、その答えがすぐに分かるものだった。
 ――志貴はわたしの心の中にいるんだよね。
 そう、志貴はわたしの心の中にいた。わたしの心の中にいる。今まで気付かなかっただけで、わたしの心の中にいるんだ。だってそうでなければ。思い出が輝いて見えるはずがない。世界が彩り鮮やかに見えるはずがない。そして、そう。
 ――――こんなに心が暖かく感じるはず、ないよね。志貴。
 温もりは今も心の中に残っている。それは今まで彼と共に歩んできた証。哀しみのあまり忘れてしまっていただけで、初めからたしかにあった。わたしがやっと、それを思い出しただけ――――。

 志貴、ありがとう。
 世界はやっぱり、こんなにも輝いてるよ。
 きっと、これからもずっと、なんでもないことが楽しく感じられるよ。
 だって今も――志貴は、わたしの心の中にいてくれるんだから。

 起きあがって、一つ大きく背伸びをする。朝に起きる吸血鬼はやっぱり変だろうか。答えは返らないけど、志貴ならきっと苦笑するだろうなって思う。太陽の光が苦手なのに変だよなって。でも、朝日に照らされる景色もきれいかもしれない。その中を駆けてきてくれて、朝食を作ってくれた彼はもういないけれど。
 こぼれる涙はひとしずく。でもその一粒に、全ての想いを込めて――だから多分、これが最後。

 ふと机の上に、置き手紙があることに気付いた。昨晩のことは誰が仕組んだのか知らない。ただ、手紙は間違いなく志貴の字だった。表書きは英語で、でまかせで言ったことをわざわざ覚えていてくれたんだってよく分かる。こんなもの用意する暇があれば、もう一日一緒に遊びに行ってくれても良かったのに。そんなことを思いつつも、嬉しくて笑顔になるのを止められなかった。

 封筒を手に取る。表にはこう書いてあった。

 Happy Birthday, Arcueid!!





   ――オマケ――

「――ふう。これで、うまくいったかしら?」
 ただ煌々と照る月の影に映し出される、一人の女性の姿。冷たい風がその長い黒髪を巻き上げ、片手に持ったトランクを僅かに揺らしていた。
「それにしても、つくづく聖夜の奇跡ってヤツとは縁が深いわね。……あいつらの信じるものだって思うとあんまり好きになれないけど」
 見上げていたマンションの様子に安心したのか、視線を戻すと来た道を帰り始めようとして、
「その前に、抱えた猫は置いていってくださいね? 彼女は、私たちに預けられたんですから」
建物の陰から響いた声に止められた。三本の細い刃のみが顔を覗かせ、月の光を受けて輝いている。
「……ふうん。この子も愛されてるのね。でも、ちょうど使い魔が欲しかったところなのよ」
「ミス・ブルー。あなたの事情は聞いていません。もし奪い去ろうというのなら、力ずくでも止めます。自由に生きさせる、それが彼の望みでしたから」

 陰にいた女性が姿を現す。釘のような剣を構えたカソック姿の少女。その顔には緊張が浮かび、何かきっかけがあれば跳びかからんと構えている。ミス・ブルーと呼ばれた女性は、ヤレヤレといった様子で溜息を吐いた。
「しょうがないわね。貴女だけならまだしも、そこで銃やら拳やら物騒なものを構えているお嬢さん方もいるみたいだから、今日は諦めとくわ」
 カソック姿の少女が出てきたのとは反対側、別の建物の陰で微かにどよめきがあった。その様子を眺めると女性は苦笑を浮かべ、それからなんでもないかのように呟いた。

「あーあ。本当に素敵な男の子になったね、君は」

 風が吹く。
 照らされた舞台には、いつの間にか黒猫が一匹残るのみ。続けてその舞台には、黒猫に駆け寄る少女たちがあがる。
 天には、どこまでも明るく輝く、月の姿があった。


(初稿:12/25/2004)
(第二稿:04/08/2005)



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