その窓は、窓であって窓ではない。

 もちろん窓であることには違いない。だが、その窓をある者は玄関代わりとし、ある者は玄関そのものとしている。結果、その窓が二階にあるにもかかわらず、彼女たちにとって窓は窓でありながら扉であった。
 月曰く。純白の姫君が時折出入りするのを見る、と。
 太陽曰く。黒猫が時に寝そべり、時に出入りする、と。

 そして満ちた月が世界を明るく照らし出す夜。今宵もまた遠野志貴の部屋の窓には来訪者があった。
 しかし、ここに一つの違いがある。

 月は語る。その人影は純白の姫君にしては妙に小柄で、だからといって決して黒猫のような小さき者でもなかった。




月姫SS Lunar Princess



 蝶つがいのきしむ鈍い音で、遠野志貴は目を覚ました。既に日付が変わった深夜、本来彼が目を覚ますことはない時間帯だ。一度眠りにつくとちょっとやそっとでは目を覚まさない彼ではあるが、たびたびの深夜の来訪者により叩き起こされるうちに、この時間帯に起きることが出来るようになっていた。
 ゆっくりと体を起こす。体を包み込む毛布が滑り落ち、涼しくなりつつある夜気に晒される。
「アルクェイド、平日は学校があるから夜中に来るなって何度も言った――」
 そこまで言いかけて、志貴は言葉を止めた。顔を上げてみれば、そこに予想外の人物がいたのだ。突然のことに思考回路は凍り付く。
「弓塚さん……?」
「こんばんは、遠野くん」

 窓を抜けてきた少女は、宙に浮かぶことが出来るかのようにふわり、と舞い降りた。真円に限りなく近い月の光を浴びるそのさまは妖精のよう。降り立つと、軽く舞い上がっていた髪の毛がそれに続いた。栗色の髪は光を浴びて輝きを増し、後ろで左右に止めた二束が軽く揺らめいている。
 ああ、きれいだ。
 志貴は自然と溜息を漏らした。満月の夜に現れた月の妖精に、目を奪われてしまっている。
 アルクェイドのような華やかさはないかもしれない。
 シエルのような、包み込む優しさがにじみ出ているわけでもない。
 秋葉のような凛とした強さもないが、その代わりに。
 何とも言えぬ暖かさと、どこかずれた微かな冷たさが弓塚さつきという一人の少女から溢れているようだった。

「月がきれいだから散歩してたら、つい来ちゃったんだけど……。
 そ、その、もし良かったら……」
 さつきは言葉を濁す。何があろうと、根っこの部分は変えられない。
「せっかくきれいだから、一緒に散歩でもって思ったんだけど、どうかな」
 緊張からだろう、言葉を震わせながらさつきは言葉を紡ぐ。
 志貴はさつきの目を見た。赤い瞳はどことなく不安に揺れているように見える。もし彼女がその気になれば、魔眼としての力を使って志貴を連れ出すことは簡単である。それをしない彼女が、志貴には可愛らしく思えた。
 ――アルクェイドなら、間違いなくもう引っ張り出しているからな。
 無意識に出た感想は、明らかに失礼なものである。内容もそうだが、目の前の女性と話しているときに他の女性を思い浮かべるのはよほど失礼であろう。しかし互いに気付かなければその事実は気付かれることはなく、故に真実とはならなかったりする。
 志貴はベッドから降りて立ち上がった。
「うん、そうだね。月がきれいだし、たまには散歩もいいかもしれない」
 さつきは笑顔を返した。どれほど嬉しくとも、今の彼女にはそれが精一杯。もっと近づきたいという想いを秘めながらも、微塵も見せることはなかった。
「それじゃあ、行こっか」
「ちょっと待って」
 志貴の方へと歩み寄ろうとしたさつきを、志貴は押しとどめた。不思議そうにさつきは小首をかしげる。
 何かおかしかったかなあ? もしかして、わたしとじゃ嫌だとか、そんなことはないよね……。
「この格好だと外に出られないから、着替えないと。その間待っててくれるかな」
 なるほど、とさつきは納得した。
 それなら、しばらくまたないと――ってえ、ええ?
 さつきがいることも気にも留めず志貴は服を着替え始める。慌ててさつきは顔を背けるが、気になるのかちらり、ちらりと横目で盗み見てしまう。本人は気付かれないようにしているつもりだが、視線だけでも人は分かってしまうものだ。まして視線の先にいるのは遠野志貴――暗殺者という常に周囲の気配に気を遣わなければ死以外の結末が存在しえない職を生業とする一族の末裔――である。視線に気付き、志貴は気恥ずかしいものを隠しながらも手早く着替えをすませた。
「お待たせ」
 志貴が声をかける。だが、さつきは返事をしない。
「弓塚さん……?」
「え……? あ、ごごご、ごめん、ぼーっとしてたみたい」
 さつきの取り繕いは取り繕いにもならぬものであったが、だからどうというわけでもない、志貴は言葉をそのまま受け入れることにした。だが恥ずかしさというスパイスはさつきの心をかき乱し、思考回路を熱暴走させる。真っ赤になった顔を隠しながら逡巡すること数十秒。
 さつきは、ともかく出発してごまかすことを選んだ。
 素早く志貴を肩に担ぎ上げ、窓へと跳ぶ。志貴が何かをわめいても、そんなことを気にしている余裕はない。むしろ泥沼に入り込んでいるようだが……それさえも、力でねじ伏せようというのか。
「ほら、月がきれいだよ、遠野くん」
 木々を飛び移り、屋根を跳び渡る彼女にはその実、前しか見えていない。だから、話しかける相手が目の前で揺れるスカートにどぎまぎしていることも、急激な上下運動で三半規管をめいっぱい揺さぶられていることも気付かない。
 ――月明かりの中、影がボールのように飛び跳ねていく。



「ごめんね遠野くん、大丈夫だった?」
 おぼつかない足取りで歩く志貴の姿にさつきは心を痛めた。舞台は街中に移り、二人は表通りから裏路地に入ったところを歩いている。死の気配が未だ消えない廻廊のような路地を歩く二人は共に死の気配を濃密に背負っていた。
 かつての事件の頃と変わらずその生気を失ったままの路地裏は、さつきが普段ねぐらとしている裏通りと非常に近い場所。立ち寄った理由はさつき曰く、
「制服姿だとお巡りさんに見つかったら大変だもん、わたしも着替えさせて」
とのことらしい。それならば最初から着替えてこればよいのではないか、と志貴は思う。そしてそれはさつき自身も感じていたことなのだ。それでも現実にずれが出来た理由はただ一つ。
 愛しい人に会いたいという想いが強かった、ただそれだけのことなのだ。
 だからさつきは出歩き始めた服装のまま志貴に会いに来た、結局それだけのこと。だが、どこか抜けているとも言えた。
「うん、何とか大丈夫、かな」
 志貴はそう返事をするが、途端倒れそうになりさつきをはらはらさせる。どこかポンコツなんだよな、俺の体、と諦めにも似た心境の志貴に対して、自身を責めさいなむさつき。そのずれは、二人の間に存在する距離を最も如実に表していたかもしれない。
 そしてしばらく歩くと、二人はさつきのねぐらに着いた。どういうわけか、さつきはこの場所を離れようとはしない。いろいろと理由はあるが、何より昔の自身を知る人に会いたくないから、という思いが強いようだ。段ボールで囲われた一角。一種の結界となっていなければたちまち姿を消してしまう、そんなわずかな空間。それが今の彼女に許されたただ一つの居場所となっているのである。
 人ではないものになってしまった当初、さつきが隠れ過ごした場所。悲劇の象徴ではあるのだが、最近ではこだわりもなくなりつつあった。何らかの理由でここに住めなくなれば、むしろ志貴の家に転がり込む理由に出来るのではないかというのが彼女の予測である。障害は多くともこの可否に関しては彼女なりに勝算があるらしい。
「着替えるからちょっと待っててね」
 言うなりさつきは上着を勢いよく脱いだ。
「わ、ちょ、……」
 突然の出来事に志貴は向きを反転させた。背中越しに聞こえる衣擦れの音にどきどきしてしまうのは哀しい男の性であろうか。志貴は見ないようにしようと後ろを向いたままだが、それに気付いたさつきは悟られぬよう溜息を漏らす。
 お返しのつもりだったんだけどなあ。見ちゃった分、見せないとね。

 少々思考がスパーク気味のさつき嬢、このあと当然一悶着あったことは言うまでもない。ただ、さつきは高揚感からの暴走でしかなかったし、志貴がその時取った行動は超絶倫人のイメージとはかけ離れた紳士的なものであったことを付け加えておく。



「お待たせっ!」
 着替え終わるなり、さつきはすぐさま言った。待たせてはいけないと相当慌てたのが表れたのか、少し噛み気味で、少し大きく、少し息を切らせた声だった。もちろん想い人に見せる姿なのだから、短い時間ながらも完璧と言えるぐらいに仕立て上げるのを忘れてはいない。最後の最後で詰めを誤ったわけだが、むしろそれが魅力的でもあった。それが通じるかどうかは別の話として、ということにはなってしまうのだが。
 濃いブラウンのニットの上にベビーピンクでムートンタッチのブルゾンを羽織り活動的な印象を与えながら、ティアードのスカートで女の子らしさも目立ちすぎない程度に表現。ロングブーツもどことなく可愛らしさを演出し、行動的で活発な女の子、というイメージを作り上げた。そう、ファッションや化粧などは一種の自己暗示のための魔術。普段はどちらかといえば可愛らしさを重視しがちなさつきだが、この服装は臆病な自身を変えるためのもの――言うなれば一種の”戦闘服”であった。
 ちょっとボーイッシュな印象を受けて、志貴はやはり驚いた。制服姿しか見ていないこともあって、弓塚さつきという少女に対するイメージはかなり固定化されたものだったのだろう。そしてそういったイメージが崩れたとき、人は恋に落ちることもあると言うが……。一瞬、動悸が激しくなったのは確かなようだ。
「さ、行こう、志貴くん」
 目を丸くしていた志貴の手を取ると、さつきは駆け出した。突如引っ張られて、志貴も慌てて走り出す。そのせいか、呼び方が変わったことに気付かなかった。
「まずどこから行く?」
 振り返ったさつきの笑顔は眩しく。想像以上に長くボリュームのある髪が、栗色に輝いて蒼い夜を流れていた。

 夜の街を二人は駆けていく。繁華街はまだ眠りを迎えず、されど行き交う人々は既に少ない。喧噪と静寂が同居する、表と裏の顔を同時に見せる二律背反の幻想にも似たカタチ。酔っぱらう人々、どこかへ急ぐ青年、目的を持たずうろつく若者たち。そんなオブジェクトをすり抜けながら、二人はその空気を楽しんでいた。それはあてもなく跳び乗った急行電車のようなもの。どこまで行くかも、どこに向かっているかも分からぬ旅、それでいて降りようと思うと既に過ぎてしまっている、そんな速さを帯びた旅。ならば、途中下車もあるとして。
 二人が向かう終着駅とは、どこなのか?

「あらさつき、こんばんは」
 唐突に声をかけられ、二人は足を止めた。声をかけてきたのは、若い――とはいっても二人から見れば一回り近く上にも見えるが――女性だった。少し派手なスーツを着こなすその姿は、明らかに水商売を思わせた。
「かおるさん!? え、えと、これは……」
 さつきがしどろもどろになると同時に手を離す。声をかけた女性は、かおるというらしい。
「なるほど、彼氏とデートってわけね? 最近頑張ってたのはこのため?」
「かかか、彼氏って――」
「隠すことないじゃないのよ。これで今夜は話の種が増えちゃったわね。
 時間だからもう行くわ、二人とも頑張ってね♪」
 志貴にウインクをして、かおるは歩き出す。
「が、頑張ってって……」
 何を頑張れって言うんだろう、という声は小さすぎて聞こえず。かおるが言外に滲ませたものを想像してしまい、さつきは一人恥ずかしがっている。恋人同士が二人で頑張る、ということは……と考えたところで、そもそも恋人同士ではない、という事実に今更気付いた。そんな想像をしたことで、より真っ赤になるさつきに志貴は気付かない。女性が誰なのか、なんていう疑問の方が先に出てきているのだ。
 さらに、志貴は最近、こういった話題に極力気付かないようにする技術に長けてきた。うかつに反応すると、三すくみが一対二に変化して余計に揉めたりするので、反応しないのが一番だと気付いたらしい。
「今の人は……?」
「かおるさん。バイトでお世話になってるんだ」
「ふーん」
 バイトか、と志貴は密かに嘆息する。未だにバイトを許してもらえない生活。貯金もあるとはいえ、稼ぐあてがなければそう簡単に使うわけにもいかない。だから、生活のためとはいえバイトが出来るさつきが羨ま……しく……?
 そこで志貴は違和感を覚えた。先程の女性は明らかに水商売をしている者だ。そんなところでさつきも働いているのか? 急に心配になり、尋ねてみる。
「弓塚さん、バイトってどんなバイト?」
「あー……」
 尋ねられて、さつきは目を逸らした。
「えーと、実は――」
 目を逸らしたまま、さつきはぼつぼつと喋り始めた。

 さつきの話を簡単にまとめると、次のような事情であった。

 かつての知人に見つかってはならないと路地裏暮らしを始めたさつきだが、いくら普通の食事が必要なくともいつまでも無一文で過ごせるわけではない。洋服も必要であるし、時たま血を飲む必要もある。しかし家に戻ったり貯金を下ろしたりしようものならたちまち家族にばれてしまうだろう。もう人間に戻れない以上親には変な期待を抱いて欲しくない。それが現在まで変わらぬさつきの気持ちである。
 彼女の”親”である永遠を求めた死徒が引き起こした一連の事件の際、彼女は既に鬼籍に入ったことになっている。血痕しか見つかっていないものの、行方不明者が大量に出た事件であるし、まさか彼女が人ならざるものになって生きていると思うものはいないであろう。親は諦め切れていないだろうが、帰ることが出来ない以上どうしようもないのだ。
 閑話休題。そういったわけで金銭が必要となり、夜だけでできてなおかつ誰にも会いそうにない仕事を探していたところ、出会ったのがかおるであったらしい。とはいってもさつき自身は狭義での水商売をしているわけではない。かおるが経営する店の中で一番普通の居酒屋に雇われ、厨房で働いているのだ。

 話を聞き終えて、志貴はほっとした。妙な仕事に就いていたら止めなければならないし、なんとなくいやだった。それが負い目から来るものか、それとも別のものか。定かではなかったが、安息感を覚えたことだけは間違いなかった。



「ごめんね……もっと早く話しておいた方が良かったよね」
 志貴はすまなそうに何度も謝るさつきをなだめながら歩いた。
 参ったな……弓塚さん、かなり情緒不安定になってるみたいだ。路地裏生活、やっぱり辛いんだろうか。うちの空いている離れにでも移ってもらった方がいいのかもしれない。秋葉も困っている人を見捨てるようなことはしないはずだし。
 はたしてライバルが家に来ることを秋葉が許可するか? という問題はもちろん、その提案がプロポーズとも取れるものになるだろうことも志貴は気付いていない。つくづく、女心に鈍い男である。

 なだめ続けるのにもそろそろ疲れてきたというところで、ゲームセンターの前を通りかかった。
「ゲーセンにでも寄ってく?」
 提案したところですぐさま志貴は失敗に気付いた。いつもの有彦と共に遊びに来ているときの気分で思わず口に出してしまったが、よくよく考えればさつきは女の子である。ゲームセンターというところに縁があるとは考えづらい。
 ただし、それは志貴の思考回路においてである。ゲームセンターには当然、若い女性向けで、そして幾分かの男性にとって恥ずかしさから忌避したくなるようなものが置いてあるのだ。そしてそれを恋する少女が見逃すはずがない。
「えぇ? ……うん、行こうよ!」
 想像とは真逆の方向に事態が動いたことで、志貴は微かに狼狽を見せた。だが、そんな様子に気付かず、さつきは志貴の手を引っ張ってゲーセンへと入っていく。向かう先は当然、未だに何故か人気の衰えぬあれ。さて、有彦ならば本心がどうあれ女の子に不快な思いをさせぬよう上手く立ち回れるのだろうが、志貴はどうであろうか。
 ゲームセンターの中に入ると、さつきは他のものに一瞥さえ与えることなく目当てのものへと志貴を引っ張っていく。目の前にあるのは、背が高い箱形の機械で正面が布によって囲まれ一定の空間を成す物体群。
「志貴くん、どれにする?」
「どれって……プリクラ?」
 そう、二人の目の前にあるのは何台ものプリクラマシンである。一時の流行にすぎないと思われた女子学生を中心とするこの文化は、根強く残りその存在感を保ち続けているのだ。
 さて、志貴はプリクラを撮った経験がないのか? というとこれは意外なことにイエスなのだ。彼の周囲の女性は得てしてそういったことに疎かったり関心がなかったりする。だから、彼にはまずプリクラに対する耐性がない。さらに言えば、さつきは今の志貴にとって「ただ一人のひと」ではない。その結果、及び腰になるのはある意味当然の帰結と言えよう。決して他の女性陣に見られる可能性を恐れてのことではないはずだ……?
「あ、もしかして志貴くんはあまり撮ったことがないの? なら、わたしが選んでもいいかな?」
 志貴がへっぴり腰になりつつあることに、さつきは気付かない。彼女の頭の中は、既に「志貴くんとプリクラ」という文字で埋め尽くされ、暴走している。
「これにしてもいい?」
 しばし考え込んだあと、さつきは一台を選び出した。一番個性のない、それゆえにもっとも飾っても違和感のないオーソドックスなフレームのもの。熱に浮かされたかのような今日の勢いがなくなっても飾れるように、と心のどこかで願ったのかもしれなかった。そうして選び抜いた一台を指し示しながら振り返って、初めてさつきは志貴が乗り気でないことに気付く。
「あ……。もしかして、いやだった?」
 急にしゅんとして、怯えをあらわにしてさつきは志貴の顔をうかがう。
 どうしよう、自分勝手な女の子だって思われたかも……。
 急速に熱が冷め、状況を把握するにつれてさつきは暗く沈んでいく。
「ゴメンなさい……自分勝手だったわ、わたし」
 こみ上げてくるものを抑えきれず、申し訳なさが堰を切って溢れ出しそうになったその瞬間、さつきの頭にぽん、と手が置かれた。志貴の手。落ち込む彼女を励ますように置かれたその手は、ちょうど中学のあの日のようだった。
 さつきにとって全ての始まった日。疑問が確信に代わり、それとは別に恋心を意識した日のこと。

 そういえば、早く帰ってお雑煮でも食べたら、なんて言われたんだよね……。
 あの日と変わらぬ優しい笑顔に、心が静まっていくのをさつきは感じた。
「ゴメンね、遠野くん」
 あの日と同じように無理して浮かべた笑顔だったが、今度はちゃんと見てくれているという事実がさつきにはたまらなくうれしかった。

 少し赤くなった眼、元から赤い瞳と合わせて真っ赤な目が悲哀を漂わせながらも。
 その時に撮った記念の一枚は、さつきにとって間違いなく宝物となった。



 相変わらず月は丸く輝き続ける。寂しく冷たく、神聖さをたたえた光は一種の魔力をもつ。その魔力は人を引きつけ、人を恐れさせ、人に力を与えてきた。きっと、彼女もそんな魔力にあてられてしまっただけなのだろう。

 まあるい、まあるい月を背負ってさつきは口を開いた。
「志貴くん、志貴くんと一緒に行きたいなってずっと思ってた所があるんだけど」
 きっと彼女の瞳が魅了の魔眼としての力を発揮したのだろう。志貴はその言葉を理解する前に首肯し、続きを促していた。だが続きを口にする前に手を引っ張られ、路地裏の方へと向かっていく。そしてさつきは周囲に人目がないことを確認すると安心した様子で、
「ちょっと我慢して」
志貴を背負い、天高く跳び上がった。

 ビルの上を羽が生えたかのように飛び渡っていく。月はいよいよ傾き始め、されどその輝きは褪せることなく二人を包み込み続ける。伸びる影は一つ。そんな二人の影を見て、本当なら立場が逆だよな、と志貴は苦笑した。
 まあ、アルクェイドに引っ張られ、夜中に出歩くときにはしょっちゅうある光景かもしれない。こんな風に引っ張られてしまうのもまた自分の性分なんだろう。
 勘が鋭く冴えたのか、急に背中に回された指で強く抓られた。

 そうしてどれほどの時間が経っただろう。やがて目にしたもの、それは。
「海……?」
 長く続く砂浜に降り立った二人の前には当然のごとく、壮大な海が広がっていた。
「そう、海」
 答えながら、さつきは志貴を背中から降ろした。突然重みが戻り、ふらつきそうになるのを何とかこらえる。柔らかく沈む砂の感触が優しかった。その感触を一歩一歩確かめながら、志貴は海を眺めるさつきの隣に並ぶ。夜の海は蒼暗く、わずかに月明かりを白く反射して、その明暗のコントラストが神秘的な美しさを漂わせていた。
「ねえ、ちょっと座って話さない?」
 言うなりさつきは腰を下ろした。志貴もそれに合わせて座る。
 漂う沈黙。
 ただ、海を眺め続ける。

 月明かりが徐々に陰りだし沈むときが近づいたころ、やっとさつきは口を開いた。
「子供の頃から、ずっとあこがれていたわ。
 好きな人とこうして肩を並べて座って、そうして二人で朝日を眺めるのよ」
 さつきは、どこか遠い目をしていた。
「何かの本で読んだのか、それともテレビドラマで見たのかもわからないわ。
 でも、そんな恋をすることにずっと憧れていたのよ」
 さつきは、視線を志貴の方に向けた。瞳には今までと違う意志が込められている。そして、その瞳こそが本当のさつきなのだと志貴は感じ取った。演じてきた彼女でも、ゆがめられてしまった彼女でもなく、ありのままの弓塚さつきなのだと。
「だから、今日はこのまま朝日が昇るまで一緒にいて欲しい……」
 声が震えていた。なぜならその問は、どちらを選ばれてもあとに苦しみが待つ選択肢に他ならない。断られれば自分の想いは決して叶わないのだと諦めなければならなくなる。だが、受け入れられたとしても、それは……。
「でも朝日が昇ったら、弓塚さんは……」
「かまわないわ」
 灰になって消えてしまうのではないか、という言葉は重ねられたさつきの言葉で止まった。死徒になってしまっているさつきにとって、太陽は致死量を優に超えた毒薬のようなものだ。しばらくなら耐えられようと、長時間となればその結末は容易に想像できる。どちらにしても、彼女が苦しむのであれば……。
「うん、分かった。朝日が昇るのを一緒に見よっか。」
 志貴は笑いかけようとして、結局うまくいかなかった。それでも言うべきことは言えた。だが、さつきは視線を再び海に戻して、独り言のように呟いた。
「志貴くんってひどい人だよね」
「そうかな?」
「うん。だって、今の志貴くんは一番大切な人がいないだけだから。
 だから、志貴くんはここにいるのがわたしじゃなくてもかまわないんだよ」
 志貴は「そんなことはない」と言おうとして言葉にできなかった。ここにいるのがさつきではなくアルクェイドであったとしても、あるいは他の誰かだったとしても、おそらく同じことを願われれば引き受けてしまう。
「でもいいの。志貴くんがここにいてくれる、それだけでも今までよりはずっといいわ」
 あとに残ったのは、気まずさを伴った沈黙だけだった。

 ふわり、と首に暖かい感触が巻き付いた。柔らかな手触り、これは……。
「毛糸のマフラー?」
 見るとベージュのマフラーが首にかけられている。志貴は慌ててさつきの方を見た。いつの間にか顔がすぐ傍にあって、マフラーの先が続いて彼女の首にも巻かれている。一つのマフラーを二人で巻く、たしかにそういう光景を見たこともあったが……。
「遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼント。
 志貴くんはあまり派手なのが好きじゃないみたいだから、ベージュにしてみたんだ」
 視線は相変わらず海に向けたままで、それでも今度ははっきりと志貴に語りかけていた。そしてさつきは肩を寄せ、そっと寄りかかる。
「あはは、暖かいや」
 そのつぶやき通り、さつきは志貴から暖かさを感じていた。一方の志貴は、さつきがもつ死者特有の冷たさを感じながらも……やはり同様に、暖かさを感じていた。
 再び沈黙が支配する。だが、そこにある空気は穏やかなものだった。あまりに気持ちよく、意識が曖昧になっていくような心地よさ。
 夜明けは、近い。



 はっと気付くと、既に朝日が昇り始めていた。まさか、寝てしまっていたというのか。志貴は焦って隣を見る。そこには誰もいない代わりに、書き置きが一つ。

『今日はありがとう、楽しかったよ。でも次こそは二人で見たいです。
                            弓塚さつき』

 しまった、と志貴は頭を抱えた。まさか眠ってしまうことになるとは思っていなかった。だが、どうしようもない。
「次――――か」
 書き置きをもう一度眺める。次がある、ならそれでいいのかもしれない。
「さて……帰るとするか」
 志貴は立ち上がる。昇る朝日を受けて、水面はきらきらと輝いていた。

 このあと志貴は思わぬほど遠くまで来ていたことに驚かされ、さらに朝帰りならぬ昼帰りを秋葉にとことん問いつめられ、さらに手編みのマフラーが見つかったり、アルクェイドやシエルまで乱入したりしてかつてないほど酷い目に遭わされるのだが……それは既に月のあずかり知らぬことなので話はここで終わりである。ただし、次の日の月が志貴の姿を確認できたかどうかは定かでない。



(了)

(初版:12/03/2004)


 (後書き)
 タイトルのLunar、本来は「月の」という意味なんですが、裏のイメージとして「狂気的な」という意味を持つLunaticを隠し含ませてあったりします。元々のお題が「さっちん・馬鹿・ラブラブ・最後にしんみり」だったのですが、上手く表現できたでしょうか。感想等お聞かせいただければ幸いです。それにしても、本編やり直したら微妙にイメージとさっちんの口調がずれていてショック。すりあわせがうまくいったでしょうか……。

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