月姫SS ナナツヨル





序/キリ




 暗闇に包まれた森に、大きく破砕音が響いた。
 確かな手ごたえ。

 ――七夜黄理の放った渾身の打撃は、紅赤朱たる軋間紅摩の首の骨を砕くことに成功した。

 七夜黄理は単身で鬼神の首を取った。それはまさしく奇跡と呼ぶにふさわしい。純粋な人の身としての個が、限りなく鬼に近いモノを倒したのだ。明らかに種としての限界を超えている。
 紅摩は不思議そうに己の首を粉砕した相手を見やると、そのままバランスを崩し倒れた。この時、紅摩は生まれて初めて"恐怖"を感じた。その瞬間の何から何までが、紅摩にとっては初めての経験に他ならなかったのである。自分を深く傷つけられたことも、自身の体が一切の枷がないにもかかわらず動けなくなることも。そして、死というものを身近に感じたことも。だが、幸か不幸か紅摩はそれを表現するすべを持たなかった。知らなければ、それを表現することもかなわない。だから、紅摩は自らの迎える死に対して表情を変えることさえなかった。
 だが、黄理という人間にとって相手が恐怖を感じているかどうかはさしたる問題ではない。黄理は、生粋の暗殺者だ。問題は相手を殺さねばならないかどうかということのみである。そして敵対し続ける以上、紅摩は殺さねばならぬ相手であった。

 否、訂正しよう。暗殺者・七夜黄理としての最期とともに。
 黄理は、紅摩との殺し合いにおいて命の遣り取りの"楽しさ"の味を覚えてしまっていた。それはただ殺すことのみを追求し続ける黄理の生き方を根本から否定するものに他ならない。だがそれに気付くことはなく、思い浮かぶことは唯一つ。この楽しみを最後まで味わうためには、殺し尽くさねばなるまい?
 だから、黄理は長年愛用してきた得物をひたすら振るった。首を砕き、目を潰し、咽喉を穿つ。鬼が甦ることのないように。全てが終わったとき、その場に残されたのは首の潰れた人の形をした骸と、原型をとどめなくなった一本の撥のような棍棒であった。愉悦に溺れた殺人狂の姿は既にかき失せており、時を同じくして滅びに向かいつつあったはずの七夜は息を吹き返していった。結果、遠野槙久はまたも黄理によって半死半生にされ、命からがら逃げ帰ることになった。
 この日、暗殺者としての七夜黄理の人生は終焉を迎えた。

 黄理が再び暗殺の仕事を請け負い始めたことにより、七夜は再度暗殺者の頂点に立つ存在となった。だが、七夜の名を上げれば上げるほど、黄理自身は袋小路に迷い込んでいくことになる。紅摩との殺し合いという舞台の上で得た悦楽が、黄理を狂わせていったのだ。
 黄理は、生粋の暗殺者であった。それ故、手に入れてはならない幸せというものがあった。普通の人としての幸せを手に入れてしまったとき、黄理は既に転落と破滅を運命付けられてしまった。七夜という一族が一度は暗殺者の頂点を転げ落ちたのは、黄理が幸せを手に入れてしまったことによるものだ。その結果、敵を増やしすぎた七夜は滅亡を待つのみの亡霊となり、破滅は結局黄理の幸せを奪うはずであった。だが、普通の幸せに勝るとも劣らない幸せを黄理は見つけてしまう。その幸せ、化物としての幸せが黄理の決定的なとどめとなってしまうこととなる。
 黄理はひたすら命の遣り取りの中にある"楽しさ"を求め続けた。だが、それは手が届くことのないものであった。生死の綱渡りを求めるのなら、それに相応の存在は数多く存在する。だが黄理は殺戮者と成りながらもなお、暗殺者としての生き方しか知らなかった。

 黄理は、おそらく勝たないほうが幸せであったのだ。紅魔に殺されれば、二つの幸せを抱えたまま黄泉の旅路を辿ることができたのだ。だが、現実は全く逆の結果であった。生き残ってしまった黄理は幸せという名の破滅の実を得てしまったがために、殺戮者と成り破滅の道をひたすら歩み続け――――その最期は、発狂死であったという。

 こうして、七夜黄理という一人の男は終わりを迎えた。
 だがそれは新たな物語の始まりでしかない。

 七夜の名を継ぐ者、黄理が得た人としての幸せの結晶。
 その者の名を、志貴といった。





一/シキ




 七夜志貴は一流の暗殺者である。
 十四を数える頃には仕事を始め、十五にして日本の暗殺者集団の頂点に立つ七夜の当主の座を継承した。数多の以来をさしたる怪我もせず、唯一つの例外なく成功させてきたがために、既に稀代の暗殺者であった父・黄理と並び称されるにまで到っている。一度は衰退し滅亡を迎えようとしていた七夜にとって、志貴はまさに望まれし者であった。

 繰り返すが、志貴は一流の暗殺者である。
 言い換えれば志貴は"稀代の"と呼ばれるほどには到っていない、ということになる。実績のみを見たならば、これがおかしな話であることは疑いようがない。だが、志貴は生まれながらに黄理に追いつけないことを運命付けられていたのだ。
 七夜は暗殺者集団ではあるが、その本質は同じ血を重ねることにより異能の力を伝える超能力者の一族である。人の身にして人にあらざるモノの混ざりモノを狩る異能者の集団、それが七夜という一族であった。七夜に産まれた者の多くは、人にあらざる能力の持ち主となる。それは黄理や志貴にも当てはまることであった。そしてその能力は生まれつき定まるものであるが故、志貴は黄理に追いつくことができないのであった。

 志貴のもつ異能は、"在りえざるモノを視る眼"である。人や人を外れたものの持つ異能の発動やその力を視認することを可能とする眼である。一方で、黄理の異能は志貴のそれに似て異なるものであった。黄理の異能は"思念を視る眼"、思念や想念を対象の存在や意味に応じた色や大きさで視ることを可能としていた。
 暗殺者という視点で見たとき、この二つの異能の有用さにははっきりとした違いがある。黄理の能力は、隠れた敵の存在はもちろん、壁の向こうにいる敵の数や位置、漠然とした強さや所属までもを読み取ることを可能としていた。それ故黄理にとって不意とは突くものであり、決して突かれることはないものであった。しかし志貴の能力は、そうした有用な側面を持たなかった。志貴の眼でなくては視えないものは視てはならないものに他ならないからである。限界まで鍛え上げようと、人の身は人の身でしかない。視る暇があれば避けろ、或いは視なければならなくなる前に殺せ。純粋な人であり、生物としてより強い者を狩り続ける七夜という一族にとってはそれが真実であった。





 気配を探る。角から廊下を伺うと、六間ほど先の廊下の角で二人の男が向かい合って話をしていた。手前の男は背が低く少々猫背気味だがそれが獣を連想させる。それに対して奥の男はかなりの背丈を誇っており、佇まいからかなりの武人であることが窺われる。どちらも気を抜いているようでいて、隙を見せない。真っ向から戦えば強敵であることは間違いない。
 いかにすれば最も速く二人を殺せるかを志貴は思案し始める。もちろん、真っ向から対峙してもかまわない。二人を相手にしようと捌ききる程度の自信はあった。だが騒がれ、或いは仲間を呼ばれでもすればそれでおしまいだ。志貴はこの場において生物としての強さが最弱の存在である。とすれば、迂闊にのこのこと出て行くわけにはいくまい。ならば、他のルートを通るべきか。だが、逡巡と言うほどの間も無く志貴は考え直す。今までに出会った敵は数人だが、死体が一つでも見つけられれば襲撃に気付かれてしまうだろう。目の前の敵を倒す方が確実だと直感が告げる。志貴は直感を信じ、飛び出す機会を窺いだした。手の汗で両手に持つ得物が滑らぬよう、静かに片方ずつ握り直す。右手には自身の誕生を祝福して作られたという短刀。七夜と刻まれた棒状の飛び出しナイフであるそれは、最もよく馴染み愛用してきたものである。左手には父の遺品である、相方をなくした錐のような撥。潰す、叩く、穿つと幾多の用法を持ち、目標とする父が愛用してきたものである。――どちらも頼れる相棒だ。もう一度握りなおすと、武人風の男が遠くへ目を逸らした。

 廊下を一陣の風が走り抜けた。

 武人風の男へと右手の短刀を投擲する。全身のばねを目いっぱいに使って放たれた短刀は、視認が不可能な速さで男へと迫り、そのまま首を貫いた。気管と骨を一度に断たれたことにより、男は声を出すこともままならず崩れた。獣じみた男は短刀の主を迎撃しようと振り返り、そのまま絶命した。振り返る瞬間には、もう志貴の撥が振り下ろされていたのだ。そして信じられないことに、志貴の一撃により男の頭は体の中に陥没していた。それを可能としたのは、一体いかような力か。
 だが、志貴は一息を吐くこともなかった。角を曲がった先に敵がいれば、気付かれてしまうのだ。二人の男の死を確認することもなく、志貴は角を曲がる。だがそこに敵はいなかった。さらに周囲の気配も探るが、何も出てくる様子は無い。
 直感は正解であったことになる。



 志貴の直感は、こと生死に関わるものである場合に冴えわたる。特に自身の死に関わる直感は、志貴自身は気付いていないものの既に未来予知の域に入る精度を誇っていた。黄理に能力で劣りながらもなお並び称されるまでに到った彼の最大の長所は、まさにこの直感力にある。それは"殺す"ということに関してはそれほど役立たないが、"生き残る"ということに関してはこれ以上無い支えであった。途中で死ななければ、最悪の失敗は無いのだ。



 志貴は二人の男の死体に目を落とす。二人は間違いなく死んでいた。安全を確認できたことで軽い安堵を覚えながらも、志貴は僅かに顔を歪める。死んだものに対する哀れみではない。殺さなければよかったと思うわけでもない。ただ、志貴が死んだものに対して何らかの感情を覚えていたことは確かである。この事は、その後彼が殺すことになった者全てに対して同じであった。
『死にたくないよぉ……』
 目標の部屋の前で殺した三人を見下ろしたとき、志貴はどこかからそんな呻き声を聞いた。もちろん、そのような言葉を放つものはこの場にいない。となれば空耳だと考えることが妥当であろう。だが、その幻聴は確かに志貴の心の中に重い影を落としていた。



 志貴にとってもう一つ黄理に劣っている点がこの死者に対する感情であった。例えどのような感情であろうと暗殺者としてすべき行動と関係ない思いを抱けばその分注意は削がれ、情に身を任せれば行動に悪影響を及ぼすことは必然である。また、この志貴の悪癖は決して人らしいと言えるものではない。志貴は殺すことについて別段何らかの感情を持つことは無い。殺すことは自然でその死体を見ることは不自然。その矛盾が暗殺者としての志貴にとって弱点であることは間違いなかった。
 ――――いっそ、殺すことを知らない人であったほうがよかったのかもしれない。
 それもまた一流の暗殺者としての志貴の真実であった。



 標的の部屋の様子を見るために天井裏にもぐりこんだ。標的の家系は古くは鬼退治の伝説のある有名な家系に連なっていたが、鬼と交わり本家の権力を奪い取った裏切り者の一族でもあった。だが魔に見放され退魔に目の敵にされようとも生き延びてきたその力は本物であろう、ならば用心するに越したことは無い。そうして回り道をしたわけだが、果たしてそれは正解であった。
 天井裏の僅かな穴から部屋を覗き見たとき、志貴は驚愕に声を漏らしかけることになる。目標の老人は、人にあらざる力で"蜘蛛の巣"を張っていた。部屋のそれぞれの入り口は巣で縛られている。迂闊に入り込めば囚われて終わっていた。もちろん志貴がそのような無様な真似をするはずは無い。事実、志貴が思いついていた進入ルートの内の四分の三は安全に入り込むことが可能であった。

 天井を破り、部屋に飛び込む。標的の老人は僅かに驚きを見せながらも、すぐさま新たな"巣"を張り志貴を捕らえようと手を向けた。老人の混血としての異能は手から放たれる方式であるらしい。志貴は向けられた手を狙い撥を投げつける。回転を加えられ放たれるその一撃は掌に吸い込まれるとそのまま突き通り、老人の肉を食い破る。手を貫かれたことで老人は苦悶の声を上げた。その隙こそが、絶対の間。志貴は相手の後ろまで回り込むと短刀を背中に刺して心臓を抉った。
 必殺のはずの一撃。しかし、負けたのはあろうことか短刀の刃であった。刃先を僅かに埋めるのみで七夜と刻み込まれた短刀はその寿命を終え、志貴は武器を失った。老人は好機を逃すまいと手に刺さったままの撥を振るう。自身の怪我よりも敵の排除を優先するその判断は、少なくともこの瞬間においては正しいだろう。老人は一流の暗殺者を前に判断力を失わない程度にはできた人物であった。

 志貴は一旦避けるために尻餅を着いてしまった。だが尻餅程度ならば状況としては最悪でもなんでもなく、すぐさま動けばよい話である。だから即座に立ち直ると続けて振るわれる第二撃を跳び上がって避けた。更なる追撃を避けるために天井を蹴り、壁を渡って移動していく。その移動法は奇怪で面妖。壁を駆け回り足を動かさないように見えるため、傍目には蜘蛛のようであった。老人が巣を張る本来の意味での蜘蛛ならば、志貴は狩人としての蜘蛛と評するのにふさわしい。
 だが、この時点での天秤は老人側に傾いていた。理由はただ一つ、足場の問題である。足場が無限に存在するならば志貴に負ける要素はない。丹念に相手を翻弄し、相手の失策を待てばよい。しかし、足場というものは有限である。彼が足場を移した直後、その場所は遅れて放たれた老人の蜘蛛の巣により覆われる。引っかかればそれは身動きが取れなくなることを意味し、死を意味する状況。志貴自身に焦りはなかったが、老人は余裕をもててしまった。これは痛恨の失敗であったはずだ、が。
 志貴は偶然に助けられることになる。部屋の神棚に、一本の短刀が供えられていたのだ。短刀を手に取り口火を切ると光が溢れた。志貴の想像以上の業物であったらしく、その輝きを眼にした瞬間老人は怯えを見せた。老人が怯んだことにより、振るわれる一撃は避ける術の無いものとなる。志貴が刃を一閃させると老人の首はあっけなく転がった。

 短刀を振って血を拭い、鞘に収めたところで志貴は思案する。これを持ち帰ってしまってもよいであろうか。志貴は物取りではない、本来そのようなことは思いもしなかったであろう。丁度長年愛用し続けた武器を失っていなければ。そして、その業に惚れ込んでいなければ。
 結局志貴は短刀を懐にしまうと撥を回収し、何事も無かったかの用に屋敷を立ち去った。





二/トオノ(一)




 夏のどこまでも遠く青い空の下、少年は草原を走っていた。まだ十にもならない少年にとっては、草原も連なる林もどこまでも広がる世界のようであった。少年が他の世界を知らなかったわけではない。ただ単に、此処にはその世界を共有する"仲間"がいたのだ。横を見れば隣を並ぶように走る、背丈から顔立ちまでよく似た少年がいた。前を見れば、先を走りながら幾度と無く振り返り少年の名を呼ぶ少女がいた。振り返れば必死に後を追いかける、年下の少女がいた。
 少年たちにとって、世界は広すぎるものだった。子供の足で知ることができる広さなど、高が知れている。だから少年たちは更なる広さを求めた。

 後方から大きな衝突音が聞こえ、続いて泣き声が聞こえた。振り返ると、後をついてきていた少女が座り込んで泣いている。どうやら木の根に躓いて転んだらしい。急いで駆け寄る。明らかに先程よりも広がっていた距離は少女の無茶の象徴であると同時に少年が周囲に気を配れなかったことの証であった。もっとも、この年頃の子供に配慮を要求するのは少々酷である。できないのが当たり前かと言えばそうではないだろうが、できなくとも許される年代だ。
 少女に駆け寄るのは、隣を走っていた少年の方が早かった。少女は膝をすりむき血を流している。真っ先に思い浮かんだのは、"いたそう"という四文字。その言葉を思い浮かべただけで、自分まで痛くなってくるような感覚があった。
『――ちゃん、大丈夫? いたいのいたいの、とんでけー!』
 先を走っていた少女もいつの間にか戻ってきていて、――の怪我を指差してそんなおまじないをした。でも、そんなおまじないだけで実際に痛みが無くなる筈はなく。泣き止みかけた――は、再び泣き出してしまった。声をかけて励ますが、えてしてこういった場合は何かを言われれば言われるほど痛みが気になるものである。少年を含めた三人は、どうすればよいか分からなくなってほとほと困り果ててしまった。
 少年は手を伸ばした。そして――の頭に掌をのせ、優しく撫でながら語りかけた。
『痛いよね。でも大丈夫だよ、みんながついてるから』
 少年が何を思ってそんなことを言ったかは分からない。少し考えれば、理屈が理屈になっていないのは明白だ。だが、その言葉に込められた気持ちが届いたのか――は泣きやんだ。――はごしごし目を擦ると、笑顔を見せた。その顔は痛いのを必死に誤魔化しているのがばればれで、涙が滲みっぱなしの目は真っ赤で。でも、だからこそその笑顔は素敵な笑顔だった。
『一回おうちに帰ろっか』
『うん』
 少女の言葉に――が答えた。少年は置いてかれまいと慌てて立ち上がり――――
『死にたくないよぉ……!』





 志貴は文字通り跳ね起きた。ひどく汗をかいたらしく、顔には数多の玉のような汗が浮かんでいる。体は熱を帯び、冬の夜気が肌を刺す痛みがむしろ心地よいものに感じられた。荒い息を静かに整える。心を無にして座して待つと流石に全身が落ち着いてきたので一度、大きく深く深呼吸をした。
 今の夢は何であったのか。それが意味するところは何か。志貴は目を瞑り己の内面に問いかける。最後の言葉を無かったものにしてしまえば全ては即座に理解できる。だが、問題なのは最後の言葉だ。志貴を長年苦しめる言葉、夢は全てその言葉を導き出すためのものであった可能性さえある。ならば夢について考える方が先であろう。
 夢に出てきた少年少女は名前を除けばはっきりと覚えている。志貴が昔、護衛の依頼を引き受けた父に付き添って訪れた家。あの家にいた子供たちに間違いなかった。短い期間ではあったものの、志貴にとっては決して忘れられぬ思い出である。あのときの子供たちは今どうしているのか、元気であろうか。当初とは違う方向に志貴の思考がそれ始めたところに、部屋の戸を開けるものがあった。
「あら、起きていらしたんですか、御館様。今朝は珍しくお早いお目覚めですね」

 静かに入ってきたのは、落ち着いた物腰の女性であった。その女性の印象を一言で言うならば、"透明"であろう。それなりの年齢ではあるのだが、小さな灯火一つしかない部屋の中では、光の加減によって十代の娘のようにも高齢の老女のようにも見える。声もまた同様。しかしその優雅な佇まいとは裏腹に、足運びには微塵の隙も無い。相当な訓練をつまなければできる芸当ではない。
「おはよう、柊叔母上」
 志貴は極めて平静を装って朝の挨拶を口にした。夢にうなされ飛び起きたのがばれることに恥ずかしさを覚えたためである。

 七夜柊は志貴の叔母で、志貴にとって母も同然の存在になる。志貴の母は病弱で、十年近く前の遠野の襲撃以降起き上がることができない状態になった。心労もあったかもしれない。遠野の襲撃の原因を遡ると、全ては黄理に繋がっている。表向きはどうあれ、恨みに思っていたものも多かったに違いない。そしてその黄理も襲撃事件を機に人が変わったかのようになってしまっていたのだから、寄る辺もなかったのではなかろうか。心をすり減らし病魔に蝕まれ続けた志貴の母は、結局若くして死ぬことになった。その母の代わりを務め続けたのが、柊だった。

 柊は口元を微かに緩めながら志貴を見ている。その微笑みに全てを見透かされているように感じて、見抜いた上での行動なのかどうかを志貴は疑うが隙を見せない。結局志貴は笑みという名の能面の裏を読み取ることを諦め、苦笑で誤魔化すことにした。
「ところで、こんな朝早くにどうかしたのか?」
「ちょっと探し物がございまして、申し訳ありませんね」
 柊は苦笑いを浮かべながら答えた。志貴は一つの疑念を浮かべる。探し物とは何であろうか。平時、志貴の目覚める時間は遅い。日が昇る前に起きるということはまず起こらない。このような時間にわざわざ来るということは知られたくない何かが探し物であるということであろう。だが、それでも聞いてしまった。
「探し物?」
「はい、そうです」
 柊は申し訳なさそうに表情を落とした。暗にこれ以上その話題に触れるなと言っている。こうなってしまっては、梃子でも動かしようがない。正確には志貴はどうやってもうまく丸め込まれてしまうため手の出しようがないといったところだが、柊に頑固な一面があることもまた事実であった。
「そうか……」
 志貴は言葉を濁してみた。それはささやかな試みだった。話題を切らなければ柊の方から話してくれるかもしれない、そんな期待が志貴の心にあった。それが一種の甘えであるということに気付けるほど志貴は大人ではない。まだ大人になりきれぬ微妙な年頃の少年としての精神を、ほぼ完成されつつある暗殺者としての精神と共に持ち合わせるアンバランスさが志貴にはある。時として魅力であるが、時として重大な欠点ともなるのも明白な性質ではあった。
「そうですよ。ですから、御館様はお気になさらずお眠りくださいませ。
 眼でまだ眠りたいと仰っていますよ」
 ふふ、と柔和な表情で柊は微苦笑をした。苦笑が混じるのは、一度眠るとなかなか目覚めないという暗殺者にあるまじき志貴の特技のせいであろう。正確には弱点であるのだが、柊の眼から見た場合のみこれは特技でもあった。結局のところ母から見たかわいい子供の象徴の一つだというのが大方の真相か。そう、普段の彼らの関係はまさしく母子なのだから。
「もう眠れそうにないから起きる。毎日毎日寝坊で小言を言われるわけにもいかないしな」
 志貴は苦笑を返した。実際、もう眠気など吹っ飛んでしまっている。たまには朝の森を散歩してみるのも悪くはなさそうだとそんなことを考えながら、志貴は起き上がろうと床に手を突いた。冷たさが手につんとしみた。



 薄暗く凍りついた明け方の夜の下、独り志貴は歩き出す。産まれたときから志貴を包み込んできた七夜の森。どんな森よりも深みと濃度を持ち、人々を遠ざけ七夜を鍛え上げるその森の中を歩くことを志貴は好んだ。本来ならば凍てついた夜露が微かに射す朝日を浴びて七色に輝き、その無数の星が目を楽しませるはずなのだが――――あいにく、そうした幻想的な時間には一刻ばかり早かったようである。まだ闇は晴れない。
 そうして歩き回ること一刻余り、黎明の時がくる。山から姿を現した日の光は七つに分かれた色をなして斜めに射し込み、森を幻想的に満たしていく。おそらく百人が百人、異口同音に感嘆の言葉を漏らすのではないだろうか。だが志貴の求めるものはその光景ではない。闇にまぎれる暗殺者たる彼には眩しすぎた。ゆえに彼がこのとき楽しむのは、視覚ではないものにうったえてくるものとなる。動き出した森のざわめきや小鳥のさえずり。凍てついた時から開放された森が放つ独特の濃密な香り。差し込む陽光が与えてくれる確かな熱。そのどれもが心に深く染み渡るものなのだ。
 志貴は自然と森の中を歩く。だが、仮に七夜という一族と関係を持たぬ第三者が同じことを望んだとしても決して叶うことはない。なぜならここは七夜という一族そのものを表す森なのだ。侵入者を阻むために仕掛けられたあらゆる罠は熟知してようと避け難いよう丁寧に配置され、そのどれもが日夜磨かれ抜かれている。生まれつきこの森とともにあった七夜の一族のみがこの森をまともに歩くことができるのだ。そういう意味では彼らを森の民と呼ぶこともできるであろう。殺すことしか知らぬ彼らにとって、七夜の森は彼らの全てであり、命を支えるものであった。

 志貴が屋敷に戻った頃には、とうに日が高くなっていた。



 志貴は何気なく自分の部屋の戸を開け、中に人がいるのに気付いた。外部との連絡役を主に担当する若者――といっても志貴のほうが若いのだが――であった。端によって座っている。
「何用か」
 志貴はただ用件を尋ねた。帰りが遅いことに苛立ちを覚えたためであるかどうかまではわからないものの、若者の足を震わせるその様が到底平静には見えなかったためだ。案の定、若者の反応は早かった。
「御館様! こ、これをご覧ください!」
 そう言って若者が差し出したのは一通の書簡であった。何の変哲もなく無味乾燥な封筒であり、若者が何に対して興奮しているのか志貴には理解しかねた。困惑の表情を隠さないでいると、若者が言葉を続けた。
「これは、遠野からの依頼の封書なのでございます!
 あの混じり物ども、一体どの面を下げてわれらに依頼などと……」
「もうよい。ご苦労であった、下がれ」
「はっ!」
 若者はまだ不満があるようであったが、不承不承部屋を出て行った。襖が閉まるのを待って封を開けると小さな便箋が一枚のみ。書かれている内容も日時と場所のみであり、それだけでは何を意味するか知れないものだった。罠か、それとも本当に依頼なのか。その文面にこめられた真意を読み取ろうと志貴は穴を開けんばかりに文字を見つめる。わかったのは唯一つ、この字を書いた人間はかっちりとした文字を綺麗に丁寧に書くのが好みだろう、ということだった。なるほど、そうした人間だから美麗な字を書こうとすることのみに意識が固まってしまっていたのだろう。
 仕方がない。罠であろうと返り討ちにすればよいだけの話だ。
 結論が出たところですっかり興味を失ったのか、志貴はその手紙を戻すと棚にしまい、再び部屋を出た。







 果たして期日が来た。どのような罠があるものかと思考を廻らせていた志貴だが、ある意味彼の予想は裏切られることになる。指定された場所にあった建物は誰かの屋敷でもオフィスでもなく、こじんまりとした喫茶店であったのだ。アンティークな外観に外国の言葉で書かれた看板がちょっとした趣味のよさを感じさせる。だがそれゆえ志貴は狼狽せざるを得なかった。知識としてこういった存在はあれど、まったく関わることのない世界に位置するものなのだ。非日常を生きる彼にとって、日常をひどく意識させる場所は居心地の悪い場所だと容易に想像がついた。だが躊躇するわけにもいくまい、周囲の気配を探ってから喫茶店に足を踏み入れた。
 店内は外から想像されるよりも薄暗い。通りに面した大きな窓に隣する席こそ明るいが、奥は人がいるかどうかをせいぜい認識できる程度でしかない。志貴はざっと店内を見回し気配を探る。隠れている人物はいなさそうだ。とすると後は客のふりをした刺客がいないかどうかだが、現在の人数ならば十分対処可能であると言えた。そこで呼吸を始めたとき、ちょうど店員が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「いや、待ち合わせが……」
「七夜様でしょうか?」
 突然店員から名前が出て志貴は驚いた。しかしよく考えればわかること、日時が決まっているのであれば予約を入れるものである。知識と実践の違い、それが意外な形で如実に現れていた。

 志貴が頷くと、店員は奥の窓側の席の方へと案内し始めた。すると、こちらに背を向けて座っている長い黒髪が見えた。おそらくその人物が志貴を呼び出した人物なのだろう。その人物は志貴に気付いていないのか振り向こうともしない。
「お連れ様がお見えになりました」
 店員の声に、その人物は顔を上げ志貴の方に向けた。はっとするほど強烈な視線が志貴を捉える。強い意志を持った眼。生半可な意思しかもてない人物ならば決して目を向けていられない、そんな視線。そんな眼をした少女が、志貴を呼び出した人物であった。
 志貴が向かい合った椅子に腰掛けると少女から挨拶してきた。
「こんにちは、七夜様。いきなりのお呼び出しして申し訳ありませんでした」
 優雅なたたずまいと振る舞い。少女はたおやかさと可憐さを兼ね備えていたが、それでも志貴は少女の強い視線が気になった。いや、既にそれしか目に入らないほどであった。少女はなぜこのような強い意志を持った眼をするのか。そこにどんな感情が込められているというのか。読み取ろうと少女の目を見返しながら志貴は口を開いた。
「いや、謝られる覚えはないのでお気になさらずに」
 少女は視線を崩さない。表情は硬く、その瞳で何かを探っている。
「用件はなんでしょうか? 暗殺の依頼?」
 視線を逸らせない。逸らすことを許されない。針の筵の上にいるようだ、と志貴は感じた。
「どちらかというと護衛に近いものになります。
 具体的な話は屋敷へお越しいただいてからにしようかと思うのですがよろしいでしょうか?」
「かまわないですが、ならばなぜここに?」
 率直な疑問だった。罠を張るためでもなんでもなくこのような場所に呼び出す理由、それは志貴にとって想像し難いものであった。予測なら幾通りも立てられる。だが、そのどれもが違うように思われた。
「個人的にお話がありましたので、その……」
 そこで初めて少女は瞳を揺らし、わずかに視線を逸らした。開放されたとたん、少女の全身像がまともに目に入った。長い髪は青黒く艶を帯び、その端正な顔立ちは美しい。しかし、やはり印象的なのは眼であった。

 そこで志貴ははたと、あることに気付いた。
「そういえば、お名前は?」
 依頼者の名前、その程度は早めに知っておかねばなるまい。そう思いたずねた言葉は、思いもよらぬ効果をもたらした。少女は一瞬驚きを見せ、次の瞬間には睨みつけ、数瞬後には笑顔に変わり、口を開いた。
「お久しぶりですね、志貴兄さん。遠野秋葉です。
 もっとも、昔しばらくの時ををともに過ごしただけなので覚えてくださってないかもしれませんけど」
 遠くで、蝉の鳴き声が聞こえた。



後編へ続く

(初版:06/15/2004)


 (後書き)
 なんか無謀なことにいろいろと挑戦していますね……後編も頑張ります

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