外はいつの間にか雪が降っている。冬木市にしては珍しく、この冬は雪がよく降った。はらはら舞う銀の細かな綿を縁側に出てぼんやり眺めていると、玄関の引き戸が開く音。続いた足音が小気味よく響いた。
「ただいま、サクラ。買ってきたものは台所でよろしいですか」
「おかえりなさい、ライダー。……うん、後で片づけるから今は台所に置いておいて」
 振り返ると外の寒さのせいだろう、わずかに顔を紅潮させたライダーが微笑みを向けながら通り過ぎた。ライダーは寒さに強いとずっと思いこんでいたが、それが間違いだと気付かされたのはつい最近だ。出逢った当初の服装を考えれば、そう思いこむのも仕方ないことだと思う。でも、それはわたしがライダー本人をよく見てなかったということでもあって……。
「そういえばサクラ、聞きましたか?」
 台所の方からライダーの声が響く。
「聞きましたかって、なにを?」
「雪が降ると、街に雪の妖精が現れるそうですよ。街中、その噂で持ち切りでした」



 聖杯を巡る一つの戦争が終わってから、一年の時が過ぎた。一度は失ってしまったと思っていた先輩も戻ってきて、先日とうとう手に入れた人形に魂を移し替えることで本当に帰ってきた。姉さんはもうすぐ卒業し、倫敦へと留学することが決まっている。そしてライダーにも有り余る魔力を提供することで現界し続けてもらっていて、今はわたしと共に先輩の家に住んでいたりする。
 そう、わたしの失ったものは戻ってきて、得たものはそのままで。間違いなく、今のわたしは恵まれていると言えた。

 今、姉さんは倫敦にいる。既に授業もないから、早めに一度下見をしてくるのだそうだ。ここ一番でドジを踏めないようにしておくのよ、なんて笑いながら旅立ったけど、今回の旅はわたしを試す意味合いが強いらしい。その間だけ冬木の管理者としての職務をわたしに任せ、その様子を見ることで今後の方針を決めるのだろう。ならば姉さんが安心して留学できるよう、わたしも管理者代理として職務を果たしたい、そう思っていた。
 そんな中、ライダーが一つの噂を聞いてきた。噂によると、雪の降る日にはきまって、街に雪の妖精が現れるのだという。ほのぼのとした、たわいのない噂。
「雪の妖精って……どんな妖精?」
 熱い入れ立てのお茶を一口飲んで、その熱が体中に染み渡るのを感じながら尋ねた。居間で向かい合って座るライダーもまた、同じように湯飲みに口を付けてから答える。体が芯から冷えていたのだろう、一口含んだだけで彼女の顔がほころんでいた。
「そこまで詳しくは。ただ、見た人は口をそろえて言うそうですよ。間違いなく『雪の精』だと」
「そう……。魔力の異常は感じた?」
「私が探った限りではありませんでした。それは、サクラもよく分かっていることでしょう?」
 うん、ライダーの言う通り。大聖杯が崩壊した影響からか、あれ以来冬木市の魔力の状態は不安定になっていて、様々な怪異が起こりやすくなっている。だから管理者代理として、魔力の状態は定期的に調べていたんだけれど……ここ最近は、むしろおかしいほどに安定していた。影響が消え去ったのか、それとも他に原因があるのか。わからないけど、少なくとも何者かの介入した気配はなかった。
「だとすると、やっぱり単なる噂?」
「でしょう。でも、ロマンチックでよい噂だと思いますよ」
「ロマンチック……そうね、ロマンチックかもしれないわね」
 ライダーの感想が思わぬものだったので驚いてしまい、結局話はそこで終わってしまった。幻想というものには誰より親しんでいるはずのライダーが、たわいのない噂をロマンチックだと言い出すなんて思わなかったのだ。



 数日が経っても、街には相変わらず妖精の噂が流れている。見た、という人の数も日に日に増えていた。
 ――何かが、おかしい。
 確信めいた予感から、毎日街を見回ってみることにした。見回りといっても、何かがあった場合に先輩を巻き込みたくなかったので、先輩がいないときや買い物のついでに見て回る程度。それでも、噂の広がり方があまりにも大きいことは明白だった。日に日に、その噂を耳にする機会が多くなる。そのせいか、最近は先輩も何か言いたげな視線を時々向けてくるようになった。その度に胸の奥が痛む。それでも、もし何か答えてしまえば、きっと先輩はわたしを手伝おうとしてしまう。それだけは避けたかった。
 見回りを続けて十日目。珍しく降った雪が積もる中、わたしは往来を眺めつつ見回りをしていた。子供たちがはしゃぎ回り、しかし降り積もる雪が喧噪に覆い被さって、街は静寂で包まれている。相変わらず、どこにも異常はない。それ自体が異常である、ということを除けば。
 どん、と何かにぶつかられた。
「きゃっ」
「うわっ」
 必死に足を踏ん張って耐えると、目の前で小さな子供がしりもちをついていた。この子供もはしゃぎ回っていた一人なのだろう。幸い、積もった雪のおかげか怪我はないようだ。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい!」
 子供は大きな声で謝罪をして、すぐに立ち上がるとわたしの脇を抜けて走り出した。途惑い振り返ると、子供が走っていく先で何人もが雪玉を投げつけあっている。雪合戦に参加しようと焦っていたみたい。可愛いなぁ、と思いつつ顔を戻して歩き出そうとすると。
「――――え?」
 街を行く人々の中、確かに目が合った。赤い瞳。雑踏を行き交う人々の中、存在のあり方が違うかのように浮かび上がるその姿は、かつて目にしたものと寸分違いないものだ。浮かべる表情は無。しかしその瞳はこちらを見据え、とらえて放さない。うそ、と呟きを漏らすと同時に、くるりとその瞳の主は踵を返した。白の輝きを纏って銀色が流れる。その赤い瞳、銀色の髪。あれは、あれは、あれは……。
「イリヤスフィール!?」
 驚きを声に出したときにはもう、少女の姿は消えていた。走り去ったのだろうか? だとしても……彼女は、もう、生きてはいないはずだ。先輩を助けるためにその身にあまりある力を使い、大聖杯と運命を共にして。だから今の出来事はありえないこと。
 傘を取り落としたわたしは、肩に雪が積もるのもかまわずただ立ちつくしていた。



「イリヤスフィールが?」
 その夜、ライダーの部屋を訪ねて今日の出来事を話した。イリヤスフィールらしき少女に出逢ったこと、彼女があっという間にどこかに行ってしまったこと。そのありえない邂逅の話を、ライダーは神妙な面持ちで聞いていた。
「何かの間違いだとは思いますが……」
 話を聞き終え、しばらく考え込む様子を見せた後に出したライダーの結論は予想した通りのもの。見間違いだろう、ということだった。もちろんその可能性は高いと思っている。ただ、可能性が零でない限り何事も疑ってみる必要もあった。
「例えば、アインツベルンの同型ホムンクルスということはありえない?」
「ありえないとは言いませんが……本気でそのように考え、言っているのですか、サクラ」
「可能性を挙げているだけよ」
「論の根拠たるものはない、と考えますが」
「それはそうだけど……姉さんがいない以上、わたしが問題を解決しなければいけない。だから、少しでも可能性を考えたいの」
 わたしの屹然とした口調にライダーは口を閉じた。強い調子に、何を言っても無駄だと思ったのだろう。わたしの言うことは与太話にも等しいかもしれない。でも、例えば、例えばだけど、姉さんならそれだけで片づけてはしまわないだろう。だからわたしも少しでも他の可能性を考えたい、なのでライダーに黙り込まれるとそれはそれで困る。わたし一人で考えられるほど今回のことは単純とは思えないのだ……。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。名門の魔術師の一族アインツベルン出身で、わたしと同じように聖杯となるはずだった少女。いや、正式な聖杯は彼女の方だから、本来なるべきだった少女というべきだろうか。彼女は大聖杯を起動させ、不完全な第三魔法を行使して先輩を助けてくれた。
 その後大聖杯を閉じた彼女は戻らなかった。大空洞自体が崩れ落ちてしまったため、表向きは生死不明となっているけど、彼女が大聖杯と運命を共にしたのは間違いないと思う。全ての幕を下ろすには、そうしなければならなかったはずなのだ。
 イリヤスフィールとは、短いながらも――もっとも、日時など正しく把握できなくなっていたころだから短いかどうかなんてわからないけど――同じ家で暮らした仲、ということになる。だが、実のところ彼女の印象はあまりよくない。当時のわたしは憎しみの念が強かったこともあり、先輩に近づかせまいとする彼女は敵でしかなかった。たぶん、個人としての在り方自体は嫌いではなかったけれど。
 嫌いになれなかった理由は、たぶん彼女の眼だ。ときどきその眼差しには、特に先輩を見る時に顕著だったけれど、年齢不相応にも見える暖かさが浮かんでいたのを覚えている。彼女の方が実は年上だなんて、今になっても信じられない。たった一度……そう、たった一度だけ先輩が彼女の話をしたとき、先輩は彼女を姉と呼んだ。先輩のお父さんの実の娘だった、という事実もその時初めて知った。あれ以来、彼女の名前は一度も先輩の名前で出したことはない。あんな先輩の顔、もう二度と見たくないから。

 ともかく。もしあれがイリヤスフィールではないアインツベルンのホムンクルスだとしたら。聖杯戦争の裏にあるものが、まだ終わっていない可能性が出てくる。大聖杯は疑いようなく終わりを告げたけど、それがこの聖杯戦争の裏にある全てだなんて言うことは出来ない。まだまだ闇の中にあることは多く、その真相が分からない限り終結したとは言えないのだ。それは新たな動きの可能性を示していることに等しい。となれば、何かが起こりそうな時は事が起こる前に対処しなければならない。その点については姉さんや教会の神父さんとも連絡を取り合ったほうが良さそうだ。人に助けを求める、わたしが以前は出来なかったことで、大きな過ちの根本にあったこと。もう二度と犯してはならない。そう、助けを求めた上で最適解を模索していけばいい。そこまで考えて、光明が見いだせた気がした。
 でも、もし、本当にイリヤスフィールだったとしたら。そこでわたしの思考は止まった。
 イリヤスフィールが生きている。それはなにを意味するのか。
 あの状況で生きのびたとはやはり考えづらい。自身の魂を別の器に載せてとばせた、というのも無理だと感じられる。ならば、一体何故。まさか、冥府から這い出てきたとでもいうのか。神話でもないんだから、それこそありえない話だ。
 冥府から舞い戻るイリヤスフィールを想像した途端、恐怖が全身を凍り付かせた。それは当然彼女の姿がどのようなものに成り果てたかではなく――なにしろかつてと同じ姿を目撃している――彼女がそうする理由を考えてのこと。彼女が命を失ったのは弟である先輩を助けるため。その原因を作ったのは――さらに今、彼女が求めたであろう先輩の隣を奪っているのも――わたしだ。一緒に暮らした頃の彼女はわたしを嫌うそぶりは見せなかったけれど、先輩に近づくことに対しては敵意に満ちた視線を向けられていたはず。ならば、彼女はわたしにたいして復讐をしたいのかもしれない。先輩の全てを奪ったものに対する、奪われたものの代弁者として。あるいは、その罪を追求するものとして。
 そう、わたしは罪を背負っている。聖杯戦争中に奪ってしまった人々の命、人々の人生。最初は無意識だから責任がないと弁解できた。その弁明が利かなくなったとき、愛する人に殺されることで自分の中で辻褄を合わせようとした。なのに思惑通りにはいかなくて。それでもまだ、聖杯戦争終結直後は愛する人を失ったと言い訳が出来た。愛する人が本来の姿ではなくなってしまった、と言い訳できた。今はそんな言い訳が出来なくなってしまって……。
 誰に言い訳するというのか。それは、
 わたしが、
 ――怖い
 いのちを、
 ――怖い
 うばって、
 助けて――――



 ――寒い。寒い。いつものように全身をいじくりまわされ、蹂躙され、泣き叫んだ後に決まって訪れる空白の時間。蟲に取り囲まれたまま膝を抱えて泣いていた。暗く、寒く、終わることのない悪夢を日常と呼ぶようになったのはいつからだったんだろう。恐怖と、絶望と。ああ、いっそこの時点で狂ってしまえば良かったのかもしれない。そうすれば、あるいは誰も傷つかずに済む結末があったかもしれない。わたし一人が狂っていれば先輩はきれいなままで、お兄様も変わってしまうことなく、そして他の……もっともお爺様はそうなってしまうことを許さなかっただろうけど。
 寒さに震えるわたしの手が、ほんのり温かくなる。包まれる感触。優しさが私を包み込む。温もりで、ああ、夢だったんだと気付いた。
「桜……」
 目を開くと、心配の二文字で埋め尽くされた先輩の顔があった。わたしさえいなければ、先輩がこんな顔をしなくて済むのに。どこかでそう思いながらも握られた手の温もりが心地よくて仕方がなくて、甘えてしまう。
「……せん、ぱい」
 わたしは汚れているのに。それなのに――。わたしなんかのために傷つき、身を削り、全てを奪われ、それでもここにいる先輩。堪らなく嬉しく、どうしようもなく恨めしい。
 手を伸ばし、温もりを求める。
 ――わたしなんか、捨ててください。
 存在を確かめようと、ひたすらまさぐる。
 ――わたしのために、何かしようとしないでください。
 そして先輩はわたしの求めに応じる。裸になって、全てをさらして求め合う。そこにあるのは、二匹の獣の交わり合い。全身を丹念に愛撫され、仕返し、粘膜をこすり合わせることに没頭する。
 快楽に溺れ意識を飛ばすことで忘れた。奪ってしまった者たちのことを。そうして何も考えられなくなって言い訳する。奪ってしまった者たちのことも、その罪も、何も考えられないのは、淫乱なわたしの体が、性欲に溺れざるを得ない状況が、気持ちよすぎる快楽が悪いのだと。言い訳して安定を得て、眠って忘れて切り替える。どれほど卑怯だと言われるとしても、他にどうすることもできなかった。わたしに許される言い訳はもう、それぐらいしか残されていない。
 愛する人との一体感に全身が悦びで震え、やがて果てる。意識が飛ぶほどの快感の頂点に達しても、後に残るのは絶望感と虚無感だった。



 妖精の噂はいよいよ知らないものを探す方が難しくなり、冬木市の外まで広がっていた。この噂を流しているのがアインツベルンであり、以前見たのはアインツベルンのホムンクルスで、何らかの隠された事情がまだ聖杯戦争にはある。だからそれを求めてアインツベルンが暗躍しているのだ、そう考えれば辻褄が合いそうだというのにそれがしっくり来ない。
 姉さんに連絡を取ってみたものの手がかりは得られなかった。教会の神父さんもまた同様。八方塞がり打つ手無し。今の自分は手も足もなくなったようで、ダルマみたいだ。とりとめもなくそんなことを感じた。
「おう、桜ちゃんかい。今日はなんにする?」
 よく晴れたある日、いつものように買い物に出かけた。状況が相変わらずであることをとりあえず忘れ、八百屋に立ち寄る。雪が多くともそれほど流通は混乱していないらしく、品揃えは悪くなっていない。
「そうですね……とりあえず、今日は……」
 その大根と、と言おうと視線をずらした瞬間、視界の隅に銀色が流れた。その輝きはまさしく雪の白銀、以前見たものと同じ。驚きそちらに振り返ると、銀色はさらに早く流れていってしまった。慌てて左右に首を振って周囲を見渡すが、既に持ち主は見あたらない。それでも今のは間違いなく……
「お、今日は桜ちゃんか」
 呆然と立ちつくしていると、八百屋の店主が嬉しそうに声をかけてくる。
「なにがですか?」
「見たんだろ? 噂の雪の妖精。ほら、ちょうど雪も降ってきた」
 上を指さす店主に合わせて見上げると、灰色の粒がゆっくりと近づいてくるのが見えた。それはまさしく雪。真っ白なはずのそれは、見上げるとむしろ黒い。
「もしかして見たの、初めてかい?」
「え……は、はい」
「そっか。じゃあ桜ちゃんが初めて妖精を見た記念だ、今日はおまけしちゃおう!」
 店主は勝手に袋に適当な野菜を入れていく。でもわたしの頭にあるのはただ一つだけ。
 イリヤスフィールが、雪の妖精だったんだ。



 今までどうして両者をイコールで結ばなかったのかはわからない。そう考えれば遥かにうまく説明がつくというのに、どうしても結びつかなかった。妖精なんていう不確かなものにしては、あまりにイリヤスフィールの姿ははっきりとしていた。だから自然と両者を切り離してしまっていたんだろう。
 雪の妖精がイリヤスフィール自身なのだとしたら。現象に対する説明は相変わらず付かないけど、それ以上に理由が分からない。目的が誰であれその人物の前にだけ姿を現せばいいのに、どうして街の人々の前に姿を現すのか。いや、そもそも彼女は本当に存在しているのか。わたしの理解の範疇を超えた何かが起こっていることは間違いなくて。なのに、もう誰にも相談しようとしなかった。
「あなたはなにがしたいんですか?」
 この空の下ならばどこにでもイリヤスフィールは存在する、そんなありえない想像から中空に向かい問いかけた。いや、あながち否定できないことかもしれない。雪と共に現れ到る所で目撃される在り方は、彼女がこの世の者とは一線を画していることを表している。死ののちそのような末路を迎えたのか、それとも残留思念のように想いだけが形を取って残ったのか。大気に満ちる魔力が安定しているのも、あるいは彼女がその存在に費やしているからかもしれない。
 だが、いずれにせよ答えは不鮮明。ただこの事実が先輩を苦しめるものとならないことを祈って……今にも崩れそうな空を見上げた。二度目の目撃からさらに数日、もう今年はこの街に雪が降らないかもしれない。冬が長い冬木市といえど、例年ならばもう雪を見ることのない時期になっていた。でも、また雪が降ればきっと、彼女は姿を現す。そのとき冬木の管理者代理として、この出来事に決着を付けなければならない。他のことは考えないよう、庭に出てただ暗い空を見上げ続けた。
 寒さがじんと凍み、熱を失う体は徐々に塊となっていく。今日は諦めるしかないのだろうか。空は灰色が暗く蠢きながらも、それ以上の変化を見せない。その様が蟲の蠢く様に似ていて、チクリとするものがあった。周囲を蟲に取り囲まれる錯覚。しかし、間に薄いヴェールが立ちふさがり、わたしを包み込んだ。その暖かさで現実に引き戻される。瞬時、厚手のコートをもう一枚羽織らされていることに気付いた。
「先輩……?」
「空を眺めるのもいいけどすっかり冷えてたぞ? 風邪を引いたりしちゃ大変だからな、家の中に――」
「もうしばらくこうしていさせてください、先輩」
「――入った方がいいんだけどな。どうしてもって言うなら、もうしばらくこうしていようか」
「!……いえ、先輩は戻っていてください!……わたしも、もう少ししたら入りますから」
 体が冷えていることを心配しているのか、先輩はわたしを抱きしめてくれていた。でも、今はそうされている方がまずい。頼りたいけど、助けて欲しいけど、でも……。イリヤスフィールを目撃したとき、先輩は何を感じるのか。傷つくかもしれないのなら、それは避けないといけない。
「そうか?」
「はい、わたしも自分の体のことぐらいは分かってますから」
「なら、先に戻るけど――」
 そこで先輩の言葉は止まってしまった。
「先輩?」
 問いかけるように振り向こうとして、わたしは先輩の言葉を止めたものに気付いた。いつの間にか舞い始めた白い雪を纏い、恭しく淑女としての礼をする少女。衛宮家の中庭にぽつんと立ち、その髪はやはり雪の輝きを秘めた銀色だ。イリヤスフィールが、またも姿を現した。しかも最悪のタイミングで。
「イリ、ヤ――――?」
 先輩が言葉を詰まらせながらも、振り絞るようにして問いかける。だが、イリヤスフィールは答えず、お辞儀を終えた途端門に向かって走り出した。
「ま、待ってくれイリ――」
「待ってください、イリヤさん!」
 先輩の方が言葉は早かったが、言い切るのも走り出すのもわたしの方が早かった。先輩が立ちつくしたままであることに感謝しながら、彼女を追う。今日見失えば、もう二度と見かけることもないだろう。確信めいた予感。それでは、彼女の真意も、この顛末の真相も永久に分からなくなってしまう。もっとも彼女に真意があるかどうかなんてわからない――ただの自動人形かもしれないではないか――けど。

 坂を駆け、商店街を抜け、辿り着いた終着駅。そこはなんの変哲もない公園だった。誰かを待っているかのように雪の妖精は公園の中央に立っている。しかしその瞳は天に向けられ、赤い瞳はただ舞い降りる白だけを映しているようだった。意を決して一歩公園の中へと踏み出す。ほぼ時を同じくして彼女は、一度嬉しそうに両手を広げてくるり、と――雪の到来を喜び、戯れるかのように――ターンをした。これは過去の記憶か、それとも本物か。少女の体は、うっすらと透き通るように背後の景色を映しだしていた。
 しばし、妖精の舞に魅入られる。楽しげな表情が、とても美しくて――哀しかった。もう一歩を踏み出す。とうとう私の存在に気付いたのか、彼女は踊るのを止めて私の目を見つめた。はじめ、その表情には何の色もなかったが、微かに唇を動かし、それから表情を変えた。なんて寂しい笑顔なんだろう。たしかに笑顔なのに、その瞳には哀しみしか映し出されていない――しばらくして、哀しいのはわたしの心の方なのだと感じた。きっと、彼女の口からわたしの名前が出るなんて思わなかったから。たしかに彼女の唇は三文字、サ・ク・ラをなぞっていた。
「イリヤ、さん?」
 問いかけても返事はない。ただわたしの方を凝視したまま、イリヤスフィールは固まっている。まばたきをしただけで見失ってしまいそうで、その眼を見つめ返し続けた。口を開かない。口を開けない。問い質したい、わたしの前に現れる理由を。責めてほしい、奪うことしかできなかったわたしの罪を。
 わずかに、彼女の瞳が揺らめく。あ、と思った時には彼女の表情が再び変わっていた。その目は、その顔は、今も記憶を離れないあの日に見た誰かと同じ顔。拒絶したわたしをただ抱きしめてくれた姉さんがしていたのと同じ、姉が弟や妹を見守り、慈しむような表情だった。そして再び動いた唇、紡ぎ出された言葉は――



 いつの間にか舞い降りる雪はわずかになり、それさえも湿り気を帯びて。雪がやむのとどちらが早かったのだろう、イリヤスフィールは溶け込むように――どこへ溶け込むのだろう――姿を薄れさせ、消えていた。彼女が最後に遺した言葉を、反芻するように心の中で繰り返す。たった五文字、意図を読み取るにはあまりに短い。それとも、あまりに予想と違ったからわからないと感じるだけなのか。
 ――しあわせに。
 見間違いでなければ――心にも響くように伝わったから他に考えようがないのだけれど――彼女はそう言った。声にはなっていなかったけど、彼女はそう言っていた。
 どういう意味なのか、ずっと考えていた。幸せになりなさい、ということだろうか。そんなの無理だ。わたしはあまりに罪を犯しすぎている。そんなわたしが幸せになっていいはずがない。先輩のこれまで生きてきた意味も、目的も、全てを奪ってしまったわたしが幸せになるなんて許されない。
 ――しあわせに。
 何度も響くように繰り返される。これもあるいは呪いなんだろうか。どうして、どうして。
 ――しあわせに。
 わたしは、幸せになんかなってはいけないのに。罪の一つさえ結局背負うことが出来ていないというのに。それなのに、どうして。
 こんなにも、心の奥深くまで言葉が響き渡るんだろう――――?

 あ。

 気付いた。気付いてしまった。わたしが幸せにならなければならない理由、イリヤスフィールがわざわざ姿を現してまで何かをしようとした理由に。
 先輩が幸せになるためには、わたしが幸せになる必要があるんだ。
 今の先輩はこれまでの全てに換えて、わたし一人を人生の目的にしている。そのわたしが幸せにならなければ、いつまで経っても彼は幸せになれない。支えることに意義を見いだすかもしれないけれど――満たされないままだろう。だから、このままでは幸せになれそうにない義弟のことを想って、義姉としての彼女が現れたんだ。なら、わたしにできることは――
 その一言が重い。
 わたしなんかが口にしていい言葉じゃない。
 決して許されることはない。
 その罪が重すぎて、潰されるとしても、それでもわたしは――

 ――幸せに、なろう。

 欺瞞かもしれない。先輩のためだ、なんて言い訳にすぎないかもしれない。そもそも単に新たな言い訳を探していただけかもしれない。それでもわたしは。
 ――幸せになろう。
 一つの罪も背負うことが出来ずに終わるよりは、まだ一人分の罪だけでも背負える方がずっとましだから。それで例え他の罪が背負えないほど大きなものになって潰されてしまっても、一人分だけでも償えるのなら。大切な人、愛する人がそれで幸せになれるのだとしたら。
 ――幸せになろう。
 許されない選択かもしれない。それでもわたしは、先輩に幸せになって欲しい、幸せでいて欲しいから、そのために。

 幸せに、なろう――――



「桜!」
 愛しい人がわたしの名を呼ぶのが聞こえた。ぬかるんだ地面を蹴って駆け寄ってくる音を聞きながら、洗濯しても落ちにくいからあまり泥が付いていないといいんだけど――なんてどうでもいいことを考えていた。振り返ると、先輩の姿が目の前にある。愛しさがこみ上げて、悲しさが堪えきれなくなって、わたしはその胸に飛び込んで泣きついた。
「桜――何があったんだ?」
 先輩はひどく困惑しているようだった。でも、今は何も言えない。だから、首を横にぶんぶんと振って、ごめんなさいと一言だけ告げた。それで察してくれたのか、先輩もそれ以上何も言わなかった。
 先輩の胸の中で抱きしめられ、髪を撫でられながらぼんやり考える。どうしてイリヤスフィールは姿を現したんだろう?
 先輩のためというのはたぶん間違いない。彼女は義姉として――あるいは一人の女として?――彼を愛していたのは疑いようのない事実だと思う。それでも、死んでなおこのような事態を引き起こし、わたしにアドバイスまでするような娘だっただろうか?
 愚問だったかな、と思い直した。
 そもそも彼女は姉だ。このどうしようもないお人好しの姉なのだ。お人好しという言葉を形にしたらきっとこうなるだろうという彼。その姉である彼女もきっと、根っこの部分では同じだったのだと思う。そもそも、弟のために自分の命すら使って見せたのは他ならぬ彼女なのだから。
 ああ、それは姉さんも同じようなものだ。姉とはそんなにも強いものなんだろうか。姉という存在になったことのないわたしにはわからないことだけど……いつかわたしも、その強さを得たいと願う。先輩が幸せであるためには、わたしが幸せであり続けなければならないのだから。そのために罪を背負える強さが欲しかった。

 イリヤさん――いえ、ねえさん、ありがとうございました。わたしはきっと幸せになります。そうなることで、先輩に幸せになってもらいます。だから――
 ごめんなさい、と心の中で呟いた。失われてしまった白い雪のような少女のことを思い、幸せになりますと繰り返しながら泣き続けた。

 その日の雪が、この冬最後の雪だった。