「怒らないよ。だってシロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん。だからわたし、シロウが何したってシロウの味方をしてあげるの」
 少女の一言は、とんでもない破壊力を持っていた。目の前が真っ白になる。
 ――――たった一言。
 そう、たった一言だ。それだけの言葉で、ガツンと、頭の中をキレイさっぱり洗われた。霧が晴れ、視界が開ける。まさに、そんな一言。
「――――俺の、味方?」
 だが、まだ問いかけずにはいられなかった。それは俺の中に欠けていた何かだから。
「そうよ。好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから」
 誰かの味方。
 何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤは言った。
 ……それが正しいのかどうか、本当は判っている。
 今まで守ってきたモノと、今守りたいもの。
 そのどちらが正しくて、どちらが間違っているのか判断ぐらいはつく。

 それを承知した上で、俺は――――

 正義の味方を張り通すのか?
 ――無理だ。もう自分に嘘はつけない。嘘をつく事が出来ない。

 桜の味方になるのか?
 ――それも、選べない。選びたい、選びたいけど……その結果引き起こされる事態、泣く誰か。それらも間違いなく俺が守りたいもの。今まで守ってきたモノ、それを全て捨てる事も、俺には出来そうにない。

 ――――なんて、優柔不断。
 今まで見ないようにしてきた現実を前にしてなお、俺は直視できずにいる。だからだろう。
「なあ、イリヤ……」
 弱音を、本音を、漏らしてしまったのは。
「……大切な人も、傷付けられる人たちも、どっちも守る。それって、不可能なのかな……?」



   ――笑顔の向こうに――



 吐く息が白い。今頃そんなものが目に入る。一度は純白に染まった呼気が再び虚空に消えるのを見て、無性に寂しくなった。
「大切な人も、切り捨てられるだろう大勢の人々も、どっちも失いたくない。どっちも俺には捨てられない」
 イリヤの肩が、びくんと震えた。
「そんなのが子供の夢でしかない事は十分身に染みてる。それでも、さ。

 ――それを目指す事は、罪なのかな……?」

 気付くと、イリヤの小さな肩に縋り付いていた。その肩が震えている。いや、震えているのはこっちか。それに気付いて、ますます自分を殺したくなる。俺は、最低だ。自分が選びきれないから、目の前にいる人に縋っている。責任を押しつけている。それこそ、許されない。
 だが。
「ううん、そんな事ない。そんな事ないと思うよ、シロウ」
 イリヤが子供をあやすように俺の頭を撫でてきた。小さな、だけどとても温かい手。寒空の元で指先まで冷え切っているはずなのに、温もりが伝わってくる。
「シロウがそのどっちかしか選べないんだったら、きっとそれは夢だったわ。でも、シロウは選んでくれたもん。どっちでもない、第三の選択を」
「――――え?」
 耳を疑った。第三の、選択? それをした覚えはない。俺はただ本音を漏らしてしまっただけ。弱音を吐いただけだというのに。
「シロウ一人じゃ手に負えないんでしょう? だから、わたしが力を貸してあげるの。シロウじゃ無理でも、わたしには無理じゃないかもしれないもの」
 思わず身を起こして、イリヤの顔を覗き込んだ。そこには笑顔。その笑みは、彼女に似合わず子供が浮かべるような無邪気さがなくて。
 例えば母親のような――母親の記憶なんて無いはずだというのに――とてもきれいな、誰かを守る者の微笑みだった。
「今はおやすみなさい、シロウ。わたしが何とかするから。だから、安心して」
 言葉と共に、イリヤの顔がそっと近付く。
 ふわりとした、柔らかくて甘い感触。重なる唇と唇。
「イリ、ヤ――――?」
 突然の事に途惑いながら、離れていく顔に問いかける。しばしまばたきをして気持ちを収めようとするが、気恥ずかしさが残った。それでもなんとかもう一度少女を視界に収めると、ちょっと朱が差したその頬が艶めかしく余計に恥ずかしさを覚える。しかし、次にその瞳を覗き込んだ瞬間、猛烈なだるさと眠気が襲ってきた。体を支えきれず、イリヤの方に倒れ込む。崩れる俺の上半身を抱きかかえて支えながら、イリヤはそっと耳元で囁いた。
 ――――だって、わたしはお姉ちゃんだもん。弟が、好きな人が困っていたら助けなくっちゃ。
 疑問の声を上げる事は出来ない。喉に力が入らない。腹から出そうにも、腹もどこかに行ってしまった。そんな状態だったから。最後の言葉も耳に入るだけで、その意味を考えられなかった。

 ――助けを求めてくれて、ありがとう。





   ―Interlude―



 遠坂凛は、ひたすら待ち続けていた。それは桜の手術が終わる時か? それとも衛宮士郎の帰りか? それとも……答えは出ない。
 椅子に座り、両肘を膝に付く。両手を組んで、額をあてて祈る。有り得ない奇跡。それが、この瞬間にでも起こってくれる事を。
 もちろん彼女はわかっている。起こりえないから奇跡というのだ。それを願う事自体間違っている。そんなものに頼りそうになってしまったのは、やはり桜の事だからだろう。魔術師らしくあるために、どんなに切り捨てようとしても切り捨てられなかった人間らしさの根底にあるもの。それは間違いなく妹への思い。妹がいなくとも、それでもやはり彼女は人らしい甘さを捨てきれなかっただろうが――それでも今、彼女の人の部分は妹の存在を土台として成り立っていた。
 雨音が聞こえる。激しくなりつつあるそれを聞いて、ついてないわね、と思った。せめて……そう、せめて。桜が逝く時は、空は輝かしくあって欲しかった。太陽の輝きが、なんて贅沢までは言わない。月が、いやまばらでも星が輝いていてくれれば。それで救われるはずもない。だが、暗くどろどろとした世界の中で果てるのはあまりに可哀想だと、そう感じていた。

 雨音は徐々に強くなる。防音のそれなりに効いたこの教会の中でよくわかるのだ、相当雨脚が強いのだろう。その中を漂っているだろう男、衛宮士郎。桜が想いを寄せる、そして唯一桜の味方にもなってくれるだろう彼。
 ――なってくれる、だろう?
 この期に及んでまだ妹を思う気持ちが強いのか。凛は自嘲する。
 ――わたしはかなり魔術師らしい魔術師だと思ってたけど、これじゃあ失格ね。
 背を背もたれに預け、天井を仰ぎ見る。覚悟していたはずなのに、それが揺らぐ。今だろうと何時間後だろうと、助からないと判れば桜を手にかける事は出来る。行動まで影響されるほど彼女の魔術師としての面は弱くも脆くもない。だが――――。
 ――遅いわね、士郎。
 凛は、どこかでは間に合わない事を祈っている。片を付ける邪魔をされたくもないが、それ以上に。彼が桜を見捨てる決断を下す事が、怖かった。最後の最後で希望も味方も失う桜を見るぐらいだったら、信じさせたまま逝かせてやった方が――――

 キイ、と音を立てて扉が開く。それは凛の後方――つまりは、外と繋がる扉だ。士郎は決断を下してしまったのか、諦観と落胆を必死で隠しながら振り返ろうとすると――
「あら、まだ終わってなかったの?」
 現れるはずのない少女――イリヤスフィールの姿があった。
「どうして、アンタ――――!」
「強いて言うなら、取引ってところかしら。――――どっちにしても最後にわたしが勝っちゃうんだから、必要ないかもしれないけど」
 イリヤスフィールは不敵に笑みを見せる。そこにあるのは自信か、それとも。しかし、もしこの瞬間、凛に余裕があったならば気付けただろう。その笑顔が作り物である事も、イリヤスフィールの足が微かに震えている事も。だが憔悴しているがために気付かれる事はなく、その事実は永遠に闇に葬り去られる事になる。
「ほう……これはまた意外な来客だな。命が惜しくなったとでも言うのか、アインツベルンの子よ」
「……意外ね、そんな呼び方をされるなんて。ま、いいわ。わたしの知った事じゃないし」
 イリヤスフィールと正対する凛の後方、つまりはほぼ逆側から聞こえた蝶つがいの軋む音。時を同じくして、扉の影から言峰綺礼が姿を現す。浮かない表情のままであるのはやはり結果が思わしくなかったからだろうか。
「本題に入るわね。わたしの要求はただ一つ。

 マキリの聖杯を、アインツベルンに引き渡しなさい」

 狼狽を見せたのは凛だった。マキリの、という時点でその言葉が桜を指し示すのは間違いない。だが、聖杯であるとは――?
「――なんで、桜を」
「……それは遠坂には関係ないわ」
「関係ないわけが――!」
 ないでしょと言おうとして、凛は自身が今そう言える立場にない事に気付いた。桜が凛の妹である事を、少なくともイリヤスフィールは知らない。いや、そもそも知っていたとしてもそこに意味はないのだ。遠坂は遠坂、間桐は間桐。極限状況であろうと、その前提は不可分。だから、手出しできない。
「――なるほど。この娘を欲しがる理由はわからなくもないな。だが処分しても結果は同じなのではないか? ならばわざわざ手を出す必要はないだろう。お前自身の望みを叶えるためには――いや、むしろそうした方が叶うのではないか?」
「!……とにかく、要求に従いなさい。交換として、こちらで預かっているシロウを返すわ。交換条件としては分が悪いかもしれないけど、バーサーカーに暴れられるよりはいいでしょ?」
 言峰の言葉が触れられたくない部分に触ったのか、イリヤは一瞬激昂しかけ慌ててそれを納め、顔を顰めながら強引に話を本題に戻した。脅迫はスマートな手段ではないものの、交換条件と呼ぶには対等ではない取引、仕方ないのだろう。
「くっ!――――桜を、どうするつもり?」
「さっきも言ったわ。遠坂には関係ない、と」
 凛は歯がみしている。だが今襲いかかればバーサーカーに引き裂かれて終わりかもしれない。アーチャーを呼んだとしても、その時は衛宮士郎の命がなくなるだろう。そのどちらも拒否せざるを得ない。だから凛には承知する他無かった。
「理解できんな。どうしてアレを欲しがるのだ。アレを手元に置く事の危険性、それを最もよく知るのは他ならぬ――」
「いいから渡しなさい!」
 イリヤスフィールは俯き、全身を震わせている。それを凛は意外だと言わんばかりにまじまじと眺め、言峰はようやく得心したといったふうに暗い喜びを微かに浮かべた。
「アインツベルンを捨てたか、イリヤスフィール。まさか切嗣の息子に懐柔されようとは思わなかったが……なるほど、衛宮士郎は確かに衛宮だったな。親子二代でアインツベルンの悲願を妨げるか」
「シロウは関係ないわ。これはわたしの意志なんだから」
「それこそ信じがたい。だが、有り得んと言いきる事もないだろうな。そう思うだろう? マキリの聖杯よ」
 言葉と共に奥から桜が姿を現す。立つのもやっとといった様相で顔面は蒼白だが、驚きに見開かれた瞳にはまだ力が残っている。なぜなら、奥にいた彼女にも会話は筒抜けであったからだ。だから彼女は気付いてしまっている。目の前の少女が誰のために己の存在意義を捨てたのかと言う事も、その誰かが彼女の事を助けたいと願ってしまった事も。
 汚れているわたしのせいでなんて、と桜は考える。わたしのせいで目の前の少女は、そしておそらくそれによって先輩もまた……。自殺さえ出来ない弱い自分が悔しい、そう感じていた。
「マキリ、わたしに従いなさい。それともシロウを傷付けられる方がいいかしら?」
「だ……だめです、そんなの! わたしが……わたしが、おとなしく従いますから」
 だから、先輩には手を出さないで。言外にそう告げながら、項垂れた桜がゆっくりと歩みを進める。その足取りは重く、表情は見えない。あるのは悔恨だろうか。その答えは本人以外、知る事はない。
「桜」
 すれ違う瞬間、呼び止められた。桜はその足を止める。
「……絶対、諦める事だけは止めなさい。必ず士郎と一緒に助けてあげるから」
 その言葉に含まれた感情。彼女がどんな立場で出した声かがよくわかったから、桜は何も言えなくなってしまった。叶う事の無かったはずの夢、こんな時に叶うなんて。嬉しいはずなのにどこかに棘が刺さったような感覚が拭えず、応える事はできなかった
「すっかり悪者ね。まあいいわ、凛と仲良くするなんて想像するだけで鳥肌が立つもの。どうするつもりかは知らないけど、せいぜい足掻きなさい」
 溜息一つを残し、桜を連れて白い少女が扉をくぐる。何故だろう、凛にはその背中が泣いているように見えた。絹のようにきめ細やかな白銀の髪は、その一つ一つが涙の流れた跡なのだと。そしてその理由に目星がついている言峰は、乾いた嘲りを崩さなかった。

 扉が閉まり、しばらくして凛は気付いた。士郎は一体どうしたのか。実際にはそんなものではないとはいえ、交換だとイリヤスフィールは断言していたのだ。ならば、士郎は返されたはず。魔術師である少女が、契約を違えるという真似をするとも思えない。
 慌てて扉を開け、外へ飛び出す。瞬間目に飛び込む、石畳に横たわる人影。
「士郎!」
 呼びかけても返事が無く、凛は思わず駆け寄った。まさか死体で返すとかそんな真似をされたはずはないだろうが、それでも焦りは生まれてしまう。抱き起こしてみると、冬の雨に打たれすっかり体が冷え切ってはいたが、士郎は確かに息をしていた。
「……凛、どうするつもりだ。その男にはもう使い道がない。ここで打ち捨てていったとしても問題はなかろう。それぐらいはわかっているな?」
「いいえ、彼は必要よ。元々組んでいたんだし……なにより、桜を助けるためには士郎がいないと話にならない。なのに見捨てろって言うのかしら?」
「助けられると思っているのか?」
 互いに疑問で問い返す。最後の疑問を聞いた凛の表情に影が差した。どうしようと桜は助かるはずなんて無い、そのことを凛は既に悟っている。それでも手の届かぬ所に連れ去られてしまえば、助けたくなってしまうのだ。それは姉としての――何であろう? 義務などではないが、だからといって愛情と呼ぶには烏滸がましい感情。しかし哀れみでは意味が変わってしまう。その感情に当てはめるべき言葉を、凛は見いだせなかった。
「――しかし、厄介な事になったな。アレが出てきた以上私怨は捨てる覚悟であったが……その必要もなくなるかもしれんな」
 アーチャーの呟きは彼らしくなく、希望に縋るような弱さと苦しみが微かに混じっていた。



   ―Interlude Out―





第2話に続く

(初版:10/24/2005)




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