「あれ? イリヤ……?」
 いつの間にだろう、目の前にイリヤが立っている。表情は、ない。
「どうしてイリヤが、ここに……」
「シロウ、今までお疲れ様」
「え?」
 突然のイリヤの発言、その意図がわからない。意図が掴めない。
「いいよ、後はわたしに任せてくれれば」
 何故だろう、足が震えてくる。同時にイリヤの表情がゆっくりと変わっていく。
「わたしには力がある。だからね」
 一刻も早くここを離れたい。耳をふさぎたい。この続きを聞いてしまってはいけない、聞いてしまえばきっと衛宮士郎は耐えられない。だというのに足は震えて力が入らず、動く事が出来なかった。
「――正義の味方になんて絶対なれないシロウに代わって、なってあげるよ」
 おもちゃを壊す時の幼児のような、残酷な笑み。言葉は氷の刃となって心臓を、全身を貫いた。



   ――笑顔の向こうに――



「うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
 絶叫と共に跳ね起きた。刃で穿たれ、穴だらけになったはずの自分の体を確かめる。だが、胸に手を当てたところで穴もその跡もどこにもなくて、ようやくさっきのが夢だったと気付いた。
「あ……」
 夢で聞いた、イリヤの言葉。正義の味方になんて、絶対なれないという言葉――――その言葉があまりに核心を貫いているように思えてくる。
 そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない!
 布団を掴んだ手が震える。頭が重い。視界が歪む。心が痛い。
「俺は……」
 俺の選んだ選択肢はなんだったのか。その答えはあまりに明白だった。

 俺は、全てをイリヤに押しつけた。

 そのつもりはなかった。ただ、ほんの少し泣き言を漏らしただけ。ああ、だがそれは。自分には不可能だという、諦めに他ならなかったのではないか。自分で選び取る事もなく、ただ嘆くだけの弱者。誰かを守る正義の味方になる事を諦めた、それが俺の選び取ってしまった結末――――。
「違う。違う。違う。違う。違う。違う」
 いくら繰り返そうと、それが嘘なのだと何よりも自身がよくわかってしまう。だってほら、その証拠に。視界が歪むのは、悔し涙が溢れているからに他ならないではないか。
「うっ……」
 吐き気を覚え、急いで立ち上がり駆け出す。襖を思いっきり開け、居間を横切ろうとして誰かに肩からぶつかった。相手が何か言ったようだけど、耳に入らない。無理矢理避けて、洗面所へと駆け込み嘔吐した。
 空白。
 何も考えられず、ただ胃の中のものを戻し続ける。だが、長い時間何も口にしていなかった体は、ただ胃液だけを吐き続けた。喉がひりひりと痛み、鼻が臭いと痛みでつんとする。その痛みで、やっと目が覚めた。
 洗面台の鏡に映った顔は、ひどく青くやつれていた。もしこれが死者の顔だと言われれば、納得してしまいかねない。それぐらい、今の俺の顔は酷かった。

 顔をよく洗って居間に戻ると、遠坂が既に座っていた。心配そうに俺を見上げ、その瞳は不安で微かに揺れている。自分で思った以上に今の顔は酷いらしい。
「ごめん、遠坂。心配かけちまった」
「……別に謝る必要はないわ。それよりも今後の対策。本当は一刻一秒だって惜しいのよ」
 遠坂は、ふん、と顔を背けたが、それが謝られて照れているからだとなんとなくわかった。そんな遠坂の態度にどこかほっとする。
「だな。ごめん。状況はどうなってるんだ?」
「……ああ、そっか。士郎には教会であった事から話さないといけないんだっけ。あのときにはもうイリヤスフィールの魔術で気を失ってたみたいだから」
 イリヤの名が出た途端、チクリと胸が痛んだ。今はそれどころじゃないというのに、その名前が出るたび、刺さった棘が大きさと冷たさを増していく。そうして小さな針は凍てついた荊の棘になり、氷柱で出来た杭へと変わっていった。
 ――――ワタシニハ、ムリジャナイカモシレナイモノ。
 イリヤの嘲りが聞こえる。不思議に思った時には、いつの間にか暗闇の中にいた。目の前には昨日と同じようにイリヤが立っている。今の言葉も昨日、イリヤが口にした言葉に違いない。だが、その表情には彼女ともっともほど遠いはずの蔑みがあった。
 彼女が嘘をついたとは思えない。ならば、その言葉は真実なのだろう。だが、だとしても――――!
 ――――カワリニ、セイギノミカタニナッテアゲル。
 彼女はそんな事は言ってない! 彼女はただ、俺を助けようとしてくれただけだ。だから、そう。そう言わせたのは俺の心だ。俺の弱い心が彼女にそう言わせているだけだ。そして、そうさせるわけにはいかない。俺は正義の味方になりたいんだから。そして妹は兄が守るものだから……。
 ――――シロウは、正義の味方になれないのに?
 巨大な氷柱が、ぐさりと心臓を貫いた。。
「――――で、慌てて外に出た時にはもうイリヤスフィールはいなくて……ちょっと、士郎、大丈夫? 顔が真っ青よ」
 見えない。
 直前までいたはずのイリヤの姿は既に無い。真正面にいたはずだというのに。そして本当に近くにいたはずの遠坂も見えない。そう、何も見えないのだ。何かがおかしい。
「――え? いや、そんなことは……」
 何とか答えようと言葉を口にしたものの、その瞬間には意識が途絶えていた……。





   ―Interlude―



 少女――間桐桜はゆっくりと目を覚ました。目の上にかかった長い髪を手で払い、目蓋を持ち上げる。まず目に入ったのは、妙に近くて豪勢な飾りの付いた天井。ひどく見覚えのないそれに途惑い、周囲を見回す。シンプルだが高級感の漂う壁の模様、大きな窓。それらを見て、ホテルのスイートルームだろうかと思った。
 体を動かそうとすると、その動きに合わせたかのように柔らかく地面が沈み込む。柔らかい、その包み込むような感触で、少女はやっとベッドの上で寝ていたことに気付いた。それもこれは少女が一度も経験したことのない心地よさ――どれほど高級な品であるというのだろうか。
「お目覚めかしら、サクラ」
 僅かな軋みの音で気付いたのだろう、少女の下へと小柄な少女――イリヤスフィールが駆け寄ってくる。その顔に表情はなく、雪のような髪が舞って後ろに流れた。
 イリヤスフィールの姿を見て、やっと少女は状況を思い出した。士郎を人質とした彼女に、教会から連れ出されたのだ。その後眠らされ、気付けばこの場所にいる。
 彼女はアインツベルンの魔術師、それは確かだ。だが、どうして彼女がわたしを欲しがったのだろう? と、疑問が生じる。マキリだから? それとも、わたしが聖杯――彼女の言が正しいのなら、だけど――だから? いくら考えても、納得のいくような理由は浮かばない。どうして殺さずにここに連れてきたのだろう、疑問だけが重く残っていた。
 そうして少女はしばし黙考し、一つの結論に至った。憧れであり、ほしいと思ってしまったもの。
 先輩。
 先輩、というその響きは少女にとって特別なものがあった。支えでありながら己の闇を突きつけるもの。限りなくキレイで、近くにいるだけで汚れた自信も救われるのではないか、そう少女に思わせてくれた存在だ。
 彼以外に自分を助けようと思う者などいないだろう。そう少女は考える。事実、唯一の肉親である少女の姉でさえ逆の決断を下した。ならば、考えられるのは一人しかいないのだ。
 だが少女はここで一つ思い違いをしている。去り際の彼女に対して告げられた、助けに行くという言葉。しかし少女は、魔術師という仮面の僅かな隙間から覗いたそれを言葉通りの意味に捉えていなかった。それはどちらかの罪なのか。とにかく、少女が信じているのは、ただ一人。
「ここはどこですか?」
 何の感情も伴っていなかったが、怯えもなく張りのある声。それをイリヤスフィールは意外だと受け取った。もっとも、それをおくびにも出さなかったのだが。そうして驚きという感情をしまい込んだまま、イリヤスフィールは口を開いた。
「アインツベルンの城にある、わたしの寝室よ。一番居心地が良く守りやすい場所。本当は、士郎以外は連れて来たくなかったけど」
「先輩もいるんですか!?」
 士郎の名前が出た途端、少女は飛び跳ねるように体を起こし周囲を見回した。だが見えるのはぬいぐるみばかりで、他の人影はない。そのことに少女は僅かな落胆と、大きな安堵を覚えた。
「……はぁ。そーいう意味じゃないわ。レディの寝室に入ってもいいのは、本当はその相手に相応しい殿方だけなんだから。シロウなら……いいかな?」
 イリヤスフィールは大きく全身で溜息を吐いた。心底呆れかえったからだろうか、ぽかんと口を開けてしまっている。だが、本当に驚き呆れたのは桜の方だ。これは、愛の告白とまではいかなくとも……そういう宣言であることは確かだ。そして何より、内容が大胆。この幼く見える少女が吐くに相応しい言葉ではない。だが、そのことにイリヤスフィール自身は気付いていないように見えた。
「はぁ……。そう、ですか。……ところで、――――」
「なに? サクラ」
 サクラの言葉にイリヤスフィールが反応した。思索の世界から現実に戻ってきたらしい。その表情は、くるくる変わる。しかし、彼女のそれはそんな聞こえの良いものとは違うかもしれない。ただ、気分が変わるのが速過ぎるだけではないか。とりとめのない思考の中、桜はそんなことを思った。そしてまた、それが子供らしいといえば子供らしい、とも。
「……わたしをどうするつもりなんですか? イリヤさん」
 桜は気迫を込めて言ったつもりだった。事実、彼女の言葉としては特別語気を強めた部類に入る。だが、返ってきたのはきょとんとした表情。意味が通じなかったか、あるいは分かっていないのはこちらなのか……桜は、困惑を覚えるばかりだった。だが、続く言葉はさらに予想を超える。
「どうって……どうして欲しい?」
 絶句。そう、桜は絶句した。――――まさか、問いかけを返されるとは……。どうして欲しいとは、どう言うつもりでいっているのか。一体どんなつもりなんだろう、それがわからなかった。
「どうして欲しいって……目的があって連れてきたんじゃないんですか?」
「う〜ん……目的はあるよ。ただ、それを達成する手段は一つじゃないんだから……?」
 イリヤスフィールは言いながら首を傾げた。
 しかし、桜はそれに気付かない。既に彼女は、目をイリヤスフィールから逸らしてしまっている。故に彼女の眼には真実が映らない。だから彼女は自身が連れられてきた理由ばかり考えていた。
 教会での会話から、今の立場は分かっている。本来聖杯はアインツベルンが用意するもの、つまりは彼女の持ち物であるはず。しかし彼女の言によれば、桜自身が聖杯なのだという。聖杯が二つあるのだろうか? そして、偽の聖杯が邪魔なのだろうか?
桜は問いかける。まるで他人事のように。震える手を後ろに隠しながら。
「わたしを殺せば、いいんじゃないですか」
 桜は内心ほっとした。声には怯えの色も震えも出なかったのだ。その安堵の色はさすがに顔に表れるが、真意は桜一人の胸の中。ただ、ほっとしてから気付く。自分の声が、ぞっとするほど冷たかったことに。
 これは桜の一種の賭だった。死ぬことを怖がっていないように見せかける、それでイリヤスフィールの反応を引き出そうとしたのだ。慌てて口を滑らせることもないだろう。だが、かえって殺すことを躊躇うはずだ。そういった目論見が、桜の中にあった。しかし果たしてその真意を見抜かれたのか、それとも。
「じゃあ、そうしてみる?」
 イリヤスフィールはその表情を険しくする。声は歌うように楽しげだった。だがその眼光は鋭く、怒りを全身にたぎらせている。
 イリヤスフィールにとって、今の桜の態度は許せるものではない。士郎がその選択肢を回避するためにどれほど悩み、どれほど苦しんだか。そしてイリヤスフィールはそれを間近で見、心の痛みを見せつけられてしまったのだ。命を含め全てを奪いたかった相手の心が奪われている苦しみ。そして、その後下した決断。これまでイリヤスフィール自身がどれだけの代償を払ってきたというのか……だが、イリヤスフィールはそこで怒りを無理矢理止めた。
「……そう、しないんですか?」
「当たり前よ。だってシロウがそうしたくないって言ったんだもん。だからわたしもそうはしたくないの」
 その言葉は逆に、桜に対してもっとも過酷だった。桜のせいで先輩が苦しんだ、その事実を桜に突きつけ目を逸らさせないものだからだ。そのことをあらためて気付かされ、桜は俯く。罪が重すぎて絶えきれないかのように。そしてとうとう、体の後ろで隠していた手の震えが体にも現れてしまう。
「でもサクラがしてほしいなら、そうしてもいいよ? わたしはどっちでもいいから」
 イリヤスフィールが、屈託のない笑顔でそう告げた。それは汚れを知らぬからできることか、それともわざとそう装っているのか。桜にとっては真実は前者。彼女はその笑顔に、純白と無垢という二つの言葉を連想していた。そしてそれ故に思う。彼女にだけは殺されたくない、と。
「死にたく……ないです。死ぬのは、嫌です。死ぬのなら、……」
 キレイな存在なんて先輩以外に要らない。イリヤスフィールなんかに奪われたくない。だから、死ぬならせめて先輩の手にかかりたい……言葉にしようとしたその思いは、形を結ぶことなく消えた。
「そう。わかったわ。じゃあ、準備するわね」
 その言葉が聞けて良かった、と言い残してイリヤスフィールは部屋を出る。彼女は今日初めて、作り物ではない笑顔を浮かべることが出来ていた。死にたくない。それは間違いなく、桜が本心から発した言葉。彼女がそう思ってくれるならばこれからの行動にも意味が出来るだろう、と考えると安心できる。いや、それ以上に本心を見せられたことが嬉しかったのかもしれない。だからだろう、口元が緩んでいる。足取りが軽い。
 一方、桜は溢れる疑問の海を彷徨っていた。何が良かったというのか。これから一体どうしようというのか。だが与えられた情報はあまりに少ない。これ以上考えても無駄だ、という結論に達しベッドに再び倒れ込む。ほんの僅かな時間だったというのに、疲労感が濃い。
 沈み込む。体が落ちていく。心地よい感覚の中、桜は気付いた。眠る前に比べて体の調子が多少回復している。魔力が増えたのか、刻印虫の活動が抑えられたのか。どちらも本来ならありえないこと。そして信じられないことでもある。だとすればどういうことか。分からないということは人の恐怖の源だ。桜は自然と、己の体を抱くように片手をもう一方の肘に回していた。
 そうしてしばらくの後。いつしか桜は微睡みの中に落ちていく。その中で、彼女はようやく一つの結論に達していた。イリヤスフィールが、何か手を打ってくれたのに違いないと。



   ―Interlude Out―





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第3話に続く

(初版:10/24/2005)




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