カップに口を付け、満たされた琥珀色の液体を少し口に含む。濃すぎず薄すぎず、香りが心地よく染み込んでくる。間違いなく美味い。これは腕を越されてしまったのかな、と向かい合って座る妹の方を見る。視線に気付いたのか、不思議そうにこちらに視線を向けてきた。
「どうですか、姉さん。今までで一番のできだとは思うんですが……」
「あー、うん。正直参ったわ。たった半年でわたしより上手くなるなんてね」
 素直な褒め言葉に本当ですかと目を大きく見張って慌てふためき、そのあと桜は得意そうに胸を張った。意識して取った仕草ではないのだろうけど……悔しいぐらいに分かる、ボリュームの差。こちらの成長を遥かに上回る成長を見せてくれるのだから憎たらしい。でもまあ、その得意そうな笑みが嬉しく感じたのも確かだ。
「これで姉さんに勝てるものが二つになりましたね。洋食と、紅茶と」
「……本気で言ってたらガンド打ち込むわよ。わたしが胸の大きさ気にしてるの知ってるくせに」
 むすっとしてみせると、桜は更に慌てふためいた。でも、口元が笑っている。理由もなくただおかしくて、気付くと二人揃って笑っていた。休日の穏やかな午後、士郎の家にある桜の部屋で過ごす平和な一時。だからだろう、するつもりのなかった質問がふと口をついて出てしまったのは。

「……本当に良かったの?」

 幸せすぎたからだろうか。今なら尋ねられる気がして、思わず尋ねていた。
「? 何がですか?」
 桜は不思議そうに首を傾げている。ああもう、その仕草は止めなさい。可愛らしくて思わず抱きしめたくなるから……って、そういう問題じゃなかった。
「その体に戻った時のことよ」
「ああ……」
 数ヶ月前、聖杯戦争が終わってからだと数ヶ月後。封印指定を受けているという人形師の素体を何とか入手して、桜の魂を人形から移し替えた。イリヤスフィールの命を懸けた挑戦は見事に成功し、第三魔法によって物質化された桜の魂は、人と変わらぬ人形素体に移し替えることで、人として再び生きられるようになったのだ。
「あの時は尋ねてる余裕がなかったけど、いつか聞こうとは思ってたのよね。間桐の影響を何もかも排除し、遠坂として生きてきた体にすることも可能だったのに……どうして、間桐桜としての体に戻りたいって言ったのか」
 桜はなんとも言えない、微妙な表情をしていた。申し訳ないような、困ったような、でも何かが嬉しそうな……そんな、難しい表情。
「あ、勘違いしないで。別に責めてるわけじゃないから。ただ、どうしても気になったのよ」
 責められていると勘違いしていたのだろうか、それが間違いだと気付き桜の表情が明るくなる。
「うーん、そうですね。何て言えばいいのかよくわからないですけど……イリヤさんが大聖杯に行く前、先輩が名前を呼んだ時のこと……覚えてます?」
「う……」
 おそらくその時、わたしは大量失血で意識が朦朧としていた頃だ。おぼろげながらに覚えているのは、士郎のイリヤを呼ぶ叫び声ぐらい。
「ごめん、あんまり覚えてない。失血が酷くてショック死しそうだったから、全身に魔力を巡らせるので精一杯だった」
「あ……そうでしたね」
 桜の表情が、やや残念そうなものに変わった。浮かんだ色は、寂しさといった方が近いだろうか。同じ感情を共有できないから? 浮かんだ疑問を頭の中でこねくり回しながら、桜の様子を見守る。しばらくすると桜は胸に手を当てて目を瞑り、やや躊躇いがちに話し始めた。
「……綺麗なわたしに戻れるというのは、すごく魅力的な話でした。今までの苦しかったこと、汚れたわたしを捨てられるなら」
 過去の苦痛が思い出されるのだろう、桜の表情は苦痛を感じたかのように少し歪む。しかしそれも束の間。穏やかさを取り戻すと、口元が少し弛んだ。
「そして何より、姉さんの妹に戻れるなら、嬉しくないはずがないですから」
 恥ずかしかったのだろうか、桜の耳が真っ赤に染まった。ああもう、こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない! 多分、わたしは顔が全部真っ赤に染まってる。
 ……でも、素直にわたしを姉と呼んでくれるのは嬉しい。過去の話を聞けば聞くほど、自分の思い違いが腹立たしくなってくる。それでもなお、わたしのことを姉と呼び、好意を素直に表現してくれることは嬉しかった。
「でも……わたし、見ちゃいましたから。あの時の、イリヤさんの顔」
「イリヤの、顔……?」
 怪訝そうな声色を乗せて聞き返してみる。しかしすぐには返事が来なかった。桜の視線は明後日の方向を向いてしまっていて、あの日のことを思い出すようにその目を細めている。少し居心地の悪さを感じて、何ともなしに頬杖を突いた。少しぬるくなり始めた紅茶は、さっきまでより味気ない。
「先輩が名前を呼んで、イリヤさんが振り返って。どんな顔だったと思います?」
「……さあ?」
 これから訪れるだろう死に怯えた顔なら、それ程感慨を与えることもないだろう。悲しみに包まれていてもそうだ。だからといって、感情を押し殺して無表情になっていたとしてもどうって事はない。ならば嬉しそうな顔かというと、それも違う気がした。愛しい者との別れを悲しまないような表情など、心にも残るまい。そうして考えを巡らせるほど、答えはますます思い浮かばなくなっていた。
「……だったんです」
「え?」
 肝心の所を聞き逃した、というわけではない。考え事に集中していたとはいえ、聞き逃すはずはないのだ。その実、わたしの意識は桜に向けられる部分の方が多いぐらいだったから。となればただ単に。その言葉を、予期できていなかったからに違いない。
「笑顔だったんです、あの時のイリヤさん」
「ふうん。笑顔、ね」
 繰り返すわたしの言葉に、桜はこちらへ向き直ると小さく、はい、と頷きを返した。なるほど、笑顔か。それは酷く曖昧で、どうにでも取れる表情の一つ。問題なのはそれが……どんな笑顔で、どうしてそこに至ったか、だ。もっとも、後者はわたしたちでは思い量る他ない。
「どう言えばいいのか判らないですけど……凄く、綺麗でした。最初は不思議だったんですよ? これから死ぬかもしれない、そんな時にどうしてあんなにも綺麗な笑顔を浮かべられるんだろうって。でも、きっと」
 そこで桜は言葉を切った。視線が、わたしのそれと交わる。今までになく感じる、強い意志。
「イリヤさんは、今までの自分を全部肯定したんだと思います。辛かったことも、苦しかったこともいっぱいあったはずなのに、それらも全て。これまでの生き方全てを誇る、そんな笑顔だったから、あんなに綺麗な笑顔だったんだと……そう思うんです」
 そこで一旦言葉が途切れる。聞こえてくるのは、この部屋にはないはずの時計の針が鳴らす音。カチコチと、やけに大きく響いてくる。その沈黙が徐々に気まずいものに感じられ、口を開こうとした瞬間、桜の口から続きの言葉が紡がれ始めた。
「そしてこう思ったんです。たとえ、これまでがどんなに辛かったとしても……それを全て受け入れれば、わたしもあんな笑顔を浮かべられるんじゃないかって。あの、綺麗な笑顔を」
 そこで桜は言葉を切り、カップに口を付けた。わたしはただ、続きを待っている。妹の変化の正体を見極めるために。……その成長をしっかり感じ取るために?
「……汚れたわたしは、先輩の側にもいられない。いつか先輩を、キレイな先輩を壊してしまうかもしれないって怖くて。でも、わたしもあの笑顔を浮かべられるようになれば。その時は、わたしも本当にキレイなわたしになれるんじゃないか。そう感じてしまったんです。
 だから、その時にはもう覚悟はできていたんですよ? 今までのわたしの全てを受け入れようって。実際にはそう上手くいかないですけど……姉さんのようになりたいですから」
「わたしのよう……ゴホッ、ゴホッ」
 突然憧れを口にされたせいか、驚きの余りむせてしまった。紅茶のカップから口を離しておけば良かったと思っても後の祭り。動揺がはっきりばれてしまったのだろう、心配して言葉をかけてくる桜は笑顔だ。突然の不意打ちにはやはり弱い。悔しいけれど、今日は完敗だ。
 桜の言葉はとても嬉しいものだった。全ての現実を受け止め、向き合おうという言葉。それは確かな成長の証。成し遂げさせたのが赤の他人であることが少し悔しいが、それは望みすぎというか、むしろ過保護というものだろう。なるほど、それで今もまだ、間桐の家に住んでいるというわけか。自身の命を掛け金とした、イリヤスフィールの大博打。その影響は今、様々なところで息づいている。
 ……わたしも負けてられないわね、と思った。目標ってのは高くないといけない。それがわたしであるなら、追いつかれるわけにはいかないのだ。ちょっと走りすぎたかな、と思うぐらいで丁度いい。こうでなければ張り合いがないのも事実だし。トップをひた走るランナーも、そいつなりの頑張れる何かがないと走り続けるってのは難しいのだ。逆にそれが一つでも増えるのはありがたい。
「姉さんってつくづく不意打ちに弱いですよね」
「ッ……! 桜、あんた今最後にわざと……」
 堪えきれなくなったのか、クスクスと桜が笑い出す。悔しいけど、今日は完全に桜が一枚上手のようだ。だが、このからかい方には既視感がある。それが何処だったかは思い出せないけど。思い出してはいけない、と勘が告げているし。
 桜のクスクス笑いが止まらない。つられていつの間にか、わたしも笑い始めていた。
「あはは……全く、何処の誰に似たのかしらね」
 言った途端、ジト目で睨まれた。
「姉さんが先輩をからかう時を真似してみただけですけど?」
「え? あは、あはは……」
 急に凄味を増されて、思わず乾いた笑いが漏れる。なるほど、どうりで既視感があったわけだ。そしてこの桜の反応は、わたしの士郎に対するからかいをあまり快く思っていないという事か。形勢は不利。話題を切り替えてしまうべし。
「そういえば士郎、遅いわね。買い物ってそんなに長くかからないはずだけど」
「そうですね。またどこかに、寄り道させられているのかもしれな――――」

「ただいまー!」

「――――いですねって、帰ってきたみたいですね」
 どちらからともなく立ち上がり、部屋を出る。玄関に迎えに出ると、大荷物を抱えた士郎の腕に、白い小悪魔……イリヤスフィールが、がっしりとしがみつくいていた。



   ――笑顔の向こうに――



「ただいまー!」
 少し前を歩いていたイリヤが、勢いよく玄関戸を開ける。それに続いて入った途端、いきなりイリヤが腕にしがみついてきた。
「うわっ。イリヤ、急にどうしたんだ?」
 荷物を取り落としそうになり、慌てて力を入れて支え直す。同時に近付いてくる足音二つ。そういえば今日は遠坂も来てるんだったか。奥の桜の部屋がある方から出てきた遠坂と桜の二人は、俺の腕の方……イリヤの姿を見た瞬間、凍り付いた。そして俺の方に向けられた視線は、何故か非常に痛い。最近は何故か、こういう視線を向けられることが多くなっている気がする。少々イリヤを甘やかしすぎ、という事だろうか……。
「うわ、怖いお姉さんたちが睨んでるー。シロウ、早く居間に行こっ!」
 凍り付くような二つの視線を全く意に介さず、イリヤは俺の手を引っ張ってくる。慌てて靴を脱ぎ、引きずられるように二人の横を通り過ぎる。
「……ロリコン」
 ボソリと呟かれた言葉。どちらの言葉かわからないけど……そういうわけではない、よな……?



「最近のシロウ、ちょっとイリヤに甘すぎるんじゃない?」
 穏やかな夕食後。遠坂の突然の言葉に真っ先に反応したのは、当のイリヤだった。
「んー、そうかな? 姉としても妹としても恋人としても、普通だと思うけど?」
 そんなトンデモナイコトを言い放つやいなや、イリヤは俺の首に抱きついてくる。あまりの勢いの良さに、倒れそうになった。それを何とか堪える。最近、妙にこういった耐える力が鍛えられているのは気のせいだろうか。
「ちょっと士郎ー!? 妹はともかく、こ、恋人ってどういうコトよ――――!!」
 あ、虎が咆えた。これはまずい。逃げ出さないとオレコナゴナミンチコンゴトモヨロシクデキナイという状況に追い込まれそうな気がする。いやでも、どうしてそんなに反応するんですかってあれ……? 桜も遠坂も、冷ややかな視線を送ってきているような……。もしかしてこれは、逃げ場がない状況でしょうか。
「そうですよ! 先輩はイリヤさんとは兄妹なんですから、こ、恋人なんていうのは、その……とにかく駄目なんです!」
「はあ。切嗣さんの子供だから……とは思っていたけど、幼女にまで手を出しちゃうなんてお姉ちゃんの教育が足りなかったのかしら……」
「ちょっと待て、どこの誰が教育されてたって? そもそもそれ以前に、俺はその――――」
「ロリコン」
「――――って聞けよ遠坂!」
 遠坂の視線はいつもとどこか違う気がする。獲物を見つけた肉食獣というよりもあれはそう、救いようがないバカを哀れむような目……!
「ロリコン」
 桜の視線は、それだけで人が殺せそうなほど恐ろしいものだった。バーサーカーに睨まれた時の方がまだましだぞ、この怖さは。神様、俺何か悪いことしましたか?
「こんなロリコンに育ってしまうなんて……お姉ちゃん、悲しいよう」
「大丈夫よ、士郎はロリコンじゃなくてわたしにゾッコンなだけだから」
 ピキリ。あ、完全に割れた。この場の空気というかなんというか、それが完全に割れた。
「うふふふふふ」
「ふふふふふふ」
 恐ろしい笑い声が二つ。あ、更に虎の咆哮が聞こえた。これはもしかして、既にまな板の上に上がってしまった状態なのか。
「それじゃシロウ、頑張ってね」
 小声で呟き、イリヤが俺から身を離す。そしてすぐさま、逃げるように居間を出て身を隠した。置き去りにされたんだろうか。なら俺もすぐに逃げ出さないと――――
「し・ろ・う?」
「せ・ん・ぱ・い?」
 背景に炎が見えそうな二人。怒ってる、間違いなく怒ってる、ってなんでさ! 誤解だというのに、これはあまりに怖い。徐々に後ずさろうとした瞬間、両肩をがっちりと掴まれる。
「うわっ!?」
「逃げだそうってのは感心しないなー。お姉ちゃん、士郎のことはもうちょっと強く育てたつもりだったんだけど」
 に、逃げ出せない!?
「藤ねえ、離せ! どう考えてもこれは、俺が悪いわけじゃ……」
「それじゃあ、先輩?」
「覚悟はいいわね?」

 ――――神様、俺、何か悪いことしましたか?





「……ふう」
 今日の分の鍛錬を終え、一息つく。魔術回路の扱いが少し上手くなったものの、この日課だけは相変わらずだ。これは昔も今も、変わらない。
 日常はずいぶんと様変わりしたと思う。イリヤがこの家に住むようになり、桜や遠坂もこの家に泊まっていくことが多い。穏やかで楽しい、平凡な日常。今日みたいに酷い目に遭うことは多々あるけど、それも楽しいものだった。約束が果たせて良かったと心の底から思う。イリヤも遠坂も桜も、誰も失わずに済んだ。

 聖杯戦争の最後の日。リーゼリットというメイドに抱えられた俺は大空洞から外まで連れ戻された。その後彼女はすぐさま中に戻っていった。取り残された俺はまだ全身を動かせず、どうにか動かそうと必至に藻掻くしかない。そうして必至で動こうと全身に活を入れ、魔術回路に無理矢理魔力を流し、影響を排除しようとして……ようやく動き出した時、二つの影が地下の大空洞へと繋がる入り口から出てくるのが見えた。最初に出てきたメイド――セラ――は両手で人形を抱え、続くメイド――リーゼリット――は、愛おしそうにイリヤを両手で横に抱きかかえていた。
「イリヤ!?」
 呼びかけても、ピクリとも動かない。まさか、まさか、まさか。最悪の想像が頭をよぎった。だが、暗くて見えなかった二人の表情を見た瞬間、それが杞憂だと気付く。二人は穏やかに、安堵した表情を見せていたからだ。
「お嬢様は今、眠っているだけです」
 人形を抱えるメイドが口を開いた。
「それじゃあ……みんな助かったのか?」
「ええ。ただ第三魔法という神秘を行使したのです、お嬢様は休息のためにしばらく深い眠りを必要とするでしょう」
「安静に、か。桜は?」
 尋ねた途端、メイドの目がキッと吊り上がった。
「お嬢様が失敗なさるとお思いですか? そんなことも信じられないとは……やはりお嬢様が目覚めたら……」
 侮蔑の目をこっちに向けた後、メイドは頭を振り、何かをぶつぶつと呟きだした。時々物騒な単語も混じっているように聞こえるのは気のせいだと思いたかった。
 イリヤのことを信じてないわけじゃない。ただ、それでも確認したかっただけなのだ。イリヤも桜も遠坂も、無事なのを……あ。遠坂は大丈夫なのか!?そう思って振り返ると、当の遠坂がよろよろと立ち上がっていた。
「遠坂!」
「ん……上手くいった、みたいね……」
 失血が響いているのだろう、顔色が青ざめたままではあったが、意識はハッキリとしているようだった。しかし、その動きが少々ふらついている。
「イリヤ、頼む」
「え?」
 いつの間にかもう一人のメイドが俺の側まで来ていて、俺にイリヤを引き渡す。慌てて抱きかかえて受け取ると、すぅすうと寝息を立てているようだった。
 ――――よく、頑張ったな。
 小さく呟いて、その頭を撫でてやる。表情が微かに変わり、少し笑ったように見えた。
「よし、帰ろう! イリヤも遠坂も、ゆっくり休ませてやらないと」
 そう告げて、イリヤを背中に回して背負う。立ち上がると、人形を持っていない方のメイドが同じように遠坂を背負っていた。もしかして、俺の方が力がないと思われたんだろうか? そういえば、さっきは俺と遠坂の二人を抱え上げていたような……情けなくなりそうなので、そのあたりは深く考えないことにした。
 空洞へと潜る前に登りかけていた太陽は、既に沈みそうな位置にあった。長い一日の終わり。色々と失ったものもあった。それでも、俺たちはみんな生きている。今はただ、そのことを喜ぼうと思った。

 第三魔法を行使したイリヤが、どうして助かったのか。本人曰く、彼女のお婆さまが助けてくれたのだとか。
「まだ生きなさい」
という言葉が聞こえ、気付いたらこの家だったらしい。まだ聖杯戦争には俺の知らない秘密が、大量に隠されているようだ。でも、そんなことはどうでもいい。イリヤが帰ってきてくれて、一緒に暮らそうという約束を果たせているのだから。

 そして聖杯戦争から半年。あっという間に過ぎ去った時間、その中で今でも鮮明に残る記憶がある。それは、あの時のイリヤの笑顔。どこまでも誇り高く、儚く、悲しげで、それでいて満たされたその笑顔に……恐怖を感じた。
 十年前の大火災の中、たくさんの死に行く人達を見た。死んでしまった後に残ったモノを見た。そのどれもが苦痛を叫び、嘆き、死を恐れていた。そんな中で唯一生き残り空っぽになった自分。今の俺の原点は間違いなく、あの時の切嗣の笑顔だ。そして、土台となったのはあの地獄の光景なのだ。
 ――――だから、怖かった。死を目の前としているのに、笑顔を浮かべられることが。
 切嗣の場合、亡くなった時は穏やかな顔だった。でもそれは、俺が跡を継ぐと言ったからこそ、夢を託せて安心したからだったはずだ。ならば、イリヤは、何故? 死にたくない、心の底からそう叫んでいたはずの彼女がなんでさ!? 考えるほどにわからなくなる。
 それでも一つだけ、確かなことがある。その笑顔は非常に恐ろしく……そして、悲しかった。死んでしまうことも、その結果に満足してしまうことも。大切な人が守りきれないばかりか、それを否定されたように感じた。それだけは、動かしようのない事実。

 だとしたら。俺がもし死んだら、その時、俺の大切な人たちはどう思うのだろう――――?
 今までに感じたことのなかった疑問。誰も悲しませたくなくて、誰も傷ついて欲しくなくて。誰かを助けるためなら、自分はどうなってもかまわないと思っていた。それが俺に唯一できる事だったから。
 だが、それでは駄目なのだ。俺が納得できても、誰か大切な人が悲しめば……それでは意味がない。イリヤの笑顔で、そんな単純な事実に気付いた。
 正義の味方という理想を諦めるつもりはない。その実現の難しさは嫌というほど味わった。イリヤをはじめ、あれだけ多くの力を合わせてもなお届かない部分があったのだ。これから先、更なる難問に直面する事もあるだろう。だというのに、一度出たはずの答えは今も揺れている。誰かの力を借りればまた、その人を犠牲にするかもしれない。そんな事実もまた、聖杯戦争の中で初めて実感した。

 結論は出ない。出るような問題なら、とっくに答えは出ているはずなんだ。でもそれが俺の選んだ道。全ての人が救われる、そんな選択肢を探すための道だ。
 だからまずは、身近な人達を守っていこう。大切な人達を、イリヤを、遠坂や桜を守るために強くなろう。近くにある笑顔を守っていくために。全てはそこからだ。身近な人を、自分の手で守れるようになる事から。だからそのためには、まず――――

「シーロウッ!」

 突然土蔵の中に飛び込んできた人影。月の光を浴びて銀色に輝く髪を後ろになびかせ、少女は飛びついてくる。
「うわっ。イリヤ、どうしたんだよ急に」
「シロウが土蔵で寝てしまわないよう見回りだよ?」
 少し目を細めながら、イリヤは俺の顔を覗き込んでいる。先程とは打って変わって、姉らしい表情とでも言えばいいのだろうか。なんだか全てを見抜かれているような気がした。
「悪い悪い。またここで寝たら、みんなに心配かけるよな」
「そうそう。シロウは大人しく私の言うこと聞いて、自分の布団で眠りなさーい!」
「そう言いつつ俺の布団に潜り込んでくるんじゃないだろうな?」
「襲わないでね? レディにはそれなりの心の準備が必要だから」
「襲うかっ!」
 抱きついたままのイリヤを引きずりながら、土蔵を出る。兄と妹のようで姉と弟のような、そんな微妙な状態。でもそれが心地良く感じている。



 ――――ここに切嗣がいれば。思わず目に浮かんだ熱いものは、気付かれぬよう夜の闇へと溶け込ませた。





 月の光を反射して、光が土蔵から微かに漏れだしている。土蔵の中に立てかけられているのは、一本の黄金の剣。重なり合う二つの影が去っていくのを見守っているかのよう。その存在は少年なりの決意の表れ。
 これから先、多くの混乱が彼らを待ち受けるだろう。一度旅立てば、あらゆる絶望が、恐怖が彼らに次々と訪れるかもしれない。だがそれでもきっと挫けない。隣に立って共に歩む者の、肩を並べて支え合う者たちの、笑顔がある限り。

 これはつかの間の休息。戦いは決して終わることなく、少年は歩き続ける。理想を叶え、その傍らにいる者たちの笑顔を守るために。






(了)


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(初版:10/26/2005)




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