「安心しろ。じいさんの夢は、俺が形にしてやるから――――」
 そう言った日のことが、その言葉が、遠く感じられる。ああ、ほら。俺の言葉のはずなのに、そこにいるのは俺じゃない。だって、俺は――――
 ――――本当に、そうなのか?
 正義の味方。その言葉に、俺は本当に反したのか? 正義の味方って、何なんだ? もう何も、わからない……。



   ――笑顔の向こうに――



「……ようやく目が覚めたようね」
 意識が現実に引き戻された途端、声が頭の中に響いた。ゆっくり目蓋を持ち上げると、遠坂が俺の顔を覗き込んでいるのがまず目に入る。その顔が妙に頼りなく見えて、ああ、心配させてしまったんだな、と気付いた。
「……俺、どうしたんだ?」
 いつの間にか、また布団に寝かされている。さっき起きたのは間違いないから、たぶん遠坂が運んでくれたんだろう。ただ、その間がどうにも不鮮明だった。
 何とはなしに手を持ち上げ、見てみる。そんなことをしても調子が良くなるはずなんてない。ただ、何気ないこの動作にも、何か意味があるように感じた。
「どうしたも何もないわね。起きてくるなり洗面所に駆け込んでって、戻ってきても顔面蒼白なまま。そして話の途中で急に倒れたのよ。……イリヤスフィールに何かされたのかとも思ったけど、魔術の痕跡も特になし。純粋に疲れていた、ってところかしら?」
 イリヤスフィールの名前が出た時、体が一瞬びくりと震えた。気付かれたかとも思ったが、遠坂はこちらから視線を逸らしていて気付かなかったようだ。
「疲れ……なのか」
「仕方ないわよ。士郎にとってはショックが大きかっただろうし」
 ドクンと心臓が跳ねた。一瞬、全てを見抜かれたかのように感じたからだ。だが、すぐにそれが桜のことを指しているのだと気付いた。
「……桜は、どうなった?」
 俺の問いかけに、遠坂の表情が魔術師のそれへと変わる。
「綺礼は出来る限り全てのことをしてくれたけど、結果は芳しくなかった。癒着している程度ならともかく、既に神経に置き換わっていた部分もあって完全な除去は無理だったってことね。ところが……突如現れたイリヤスフィールが、桜の身柄を引き渡すように要求してきたわ。士郎と引き替えに、とね」
「俺と、引き替え?」
「そう。どういった経過があったのかわたしは知らないけど、とにかくイリヤスフィールはあなたを交換条件に持ちだして桜を連れ去った。後を追おうと遅れて教会を飛び出したら、そこに……」
「俺が倒れてた、ってわけか」
 要するに、イリヤスフィールは俺を人質にしたわけか。あのとき、彼女は『何とかする』と言っていた。これが『何とかする』ってことなんだろうか。だとしたら、彼女は桜を連れ去ってどうするつもりなんだろうか。
「なあ……どうして桜が連れ去られたんだ?」
「そんなのこっちが聞きたいわよ。ライダーのマスターだからだとしても、それなら殺せば済むんだから……そもそも、あの場に現れる意味からしてないのよね」
 ぶつぶつと呟きながら、遠坂は考えの中に埋没してしまった。だが、俺はその理由を知っている。俺が、助けを求めたから。助けを、願ってしまったから。
「俺の……せいだ」
「だとしても……えっ? 士郎、今なんて言った?」
「たぶん、俺のせいなんだ。イリヤスフィールが教会に現れたのも、桜を連れ去ったのも」
「……どういうこと?」
 遠坂は驚きに目を見開き、次には呆気にとられたかのようにぽかーんと口を開けていた。いつになくその顔が間抜けに思えて、吹き出しそうになる。それを察したのか、遠坂の目がつり上がった。もし不機嫌になって八つ当たりされては溜まったもんじゃない。慌てて話を続ける。
「教会を出てからずっと歩き回って商店街の公園にいた時、イリヤに出会ったんだ。前にもその公園で会ったことがあったから、俺と話したくて来てたんだと思う」
 あ、遠坂が変な顔になった。珍獣でも見るかのような視線。敵のマスターと会うなんて昼だろうと自殺行為だ、そう言っている。
「その時、思わず弱音を吐いちまった。桜も、他の人々も、どっちも守るってのは夢に過ぎないのかな……って」
 現実と理想。避け得ない現実を突きつけられて、それでもまだ俺は理想を貫きたいと願ってしまった。不可能だとわかっていたはずだというのに。
「……それで? イリヤスフィールは、なんて言ったの?」
「わたしなら何とかできるかもしれないから、何とかするって。その後、急に眠気がして」
 カチ、コチ。襖を隔てた、隣の部屋にあるはずの時計の音が聞こえてくる。本来、聞こえるはずのない音。それぐらい今の沈黙は重く、深い。
「とりあえず、状況だけは理解。といっても……難しいわね。その話を聞いてしまうと、今すぐ動くべきなのか判断が付かない」
 遠坂は腕を組んで一つ、大きな溜息を吐いた。
「アーチャー。貴方はどうすべきだと思う?」
「……さしあたり、今すぐ動くのは得策ではないだろう。今は情報収集に努め、一日待ってからでも遅くはない」
 もっとも、アレが大きな動きを見せなければな。突如部屋に現れたアーチャーは、最後にそう小さく呟いた。
「アレって……やっぱりあの黒い影のことよね。今日はそちらを優先すべきって事?」
 遠坂の発した疑問に、アーチャーはゆっくりと頭を振った。
「アレはおそらく……今日は出ないだろう。アレはそういったものだ」
「……ちゃんと説明して、アーチャー。貴方、記憶が完全に戻ったのね?」
 遠坂は追及の手を弛めない。赤い弓兵はどこか遠い目をして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「アレは『災厄』だ。人の呪い、怨念、妬み……そういったものが一体となって出来た、一つの呪い。人の負の部分を寄せ集め、一つの筺に詰め込んだもの。俺のような守護者が敵とする、人類を脅かす災厄があの黒い影の正体だ」
 悪。それが最初に浮かんだ印象だった。だというのに、どうして。あの黒い影が、誰かと重なって見えてしまうんだろう――――?
「なるほどね。だとするとあのとき『瘧』と言ったのも納得だわ。呪いが一番引き起こしやすい症状だものね」
 遠坂はそこで一旦言葉を切り、アーチャーの眼をキッと睨みつけた。
「だとしても、どうしてそれがさっきの結論に至るの? 今日は出ないだろう、なんて」
「アレはまだ、完全にカタチを成してはいないからだ。カタチを成せばこの街など一瞬で食い尽くされる。だが現実にはそうなっていない。ならば……

 不完全なそれである、大本が存在するはずであろう?」

 ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえた。それが俺のものだったか、遠坂のものだったか、あるいは両者だったのか――緊張感が走る。
「……まだ確証がなくてな。知識・経験・直感全てが一つの解へと辿り着いてはいるが、状況証拠だけでは言い切ることもできん。ただ、それでも今日は現れないだろうと言えるのは確かだ。信じないならそれでもいい。とにかく、最悪の場合それだけのものを相手にすることは覚悟しておけ」
 無論、負けるつもりは毛頭無いが。アーチャーは最後にそう付け加える。
 再び刺すような沈黙が舞い降りた。おそらく遠坂は黒い影と戦うことになった場合のことを考えて。俺は……どうしても影から離れない誰かのことを考えて。
 そう、なんで、今も。あの黒い影が、■■■と重なって仕方ないのだろう――――?





   ―Interlude―



 口ずさむ。歌を、口ずさむ。
 そこにあるのは遠き母の記憶。全てが夢幻の如く感じ取れる、遠き日の調べ。だが、彼女の思いはそこにはない。扉の向こうで休む、自身の影とも呼べる少女に思いをはせている。
 少女達は、表裏一体とも呼べる関係にある。共に魔術師の家系に生まれ、共に両親と幼くして別たれ、共に聖杯となるための存在へとその身を弄くられた。しかし、二人はどうしてか似ても似つかない。白と黒。光と影。少女達は、ひどく好対照だった。だからこそ好感を抱くのだろうと、イリヤスフィールはそう考える。
 少女自身への感情を除いたならば、むしろイリヤスフィールは少女を憎んでさえいる。彼女にとってただ絶対であったキリツグ、シロウという二人。その一方は既にこの世に亡い。そしてそのもう一方――この世でもっとも憎く、もっとも殺したく、もっとも好意を抱く存在となった少年――が大切に思う存在が、少女であるという事実。これは彼女に複雑な思いを抱かせ、少女を、少年への憎しみを少々肩代わりさせる存在へと転じさせた。だが、さりとて。
 全く同一の存在であればまた違っただろうが、どうして少女は好ましい存在に思えてしまうのだ。同じ苦しみを共有する存在、いや苦しみならば少女の方が遥かに深い。それでも少女は誰かを責める前に、自分を責める。誰も恨まない、そんな在り方。

 純粋な白と言える彼女から見れば、むしろ黒の中にある少女の白こそまさしく純白だった。

 それは思い込みかもしれない。勘違いかもしれない。だが、少女にとって彼女がキレイナ存在に見えるのと同様、彼女にとっても少女はきれいな存在だったのだ。だから彼女は少女のことが好きだった。

 ふう、と息を一つついて、イリヤスフィールは明日の計画を綿密に練りはじめる。とりあえず、今晩一晩だけなら抑えきることは可能なはずだ。あの部屋は特に魔力を回復しやすく、さらに神経に巣くう蟲共が気付かぬように魔力も少し補充してある。おかげで今日はバーサーカーを満足には使役できそうにないが、今まで攻めてこない以上ライダーも臓硯も攻めて来るまい。――――いや、夜になれば攻めてくる可能性は十分にあるか。多少無理をすれば撃退は可能だろうが、消耗戦を挑まれると苦しい。バーサーカーの強さ頼みの戦略が、ここに来て暗雲をもたらし始めている。
 ――――ま、なるようにしかならないわね。バーサーカーは最強なんだから、誰が来ても大丈夫なんだから。
 守勢に回る、というのは彼女にとって初めての経験だった。今までは出歩くにしろ何にしろ、敵を見かければ攻撃するだけで良かったのだ。だが、今の彼女には守らなければならない存在(少女)がいる。サクラを失ってしまえば姉失格だ、シロウに会わせる顔がない。その思いが強迫観念となり、焦りとなって彼女を締め付ける。精神的にまだ幼い部分が強く残る彼女にとっては初めての経験。しかも初めてであるがために、彼女は自身の感情を理解していない。だから、もし第三者が今の彼女の後ろ姿を見たならば。

 そのあまりの小ささに、卒倒してしまうのではないだろうか。



「――――リーゼ! リーゼー!?」
 従者を呼ぶ声がこだまする。明日の朝、彼女自身の魔力が最高潮に達する時間帯を狙って術式を始めなければならない。そのためには今日からの準備が不可欠だろう。
「イリヤ、呼んだ?」
 音も立てず、己が名を呼ばれた従者が姿を現す。
「明日の朝、始めるから。今から準備しておいて」
「わかった。セラにも、伝える」
 一つ返事で従者は了承の意を伝え、再び姿を消した。それを見届けて、やっとイリヤスフィールは溜息を一つ付く。とりあえず、これで明日までにすべき事は終えた。あとは明日。明日を無事に乗り切れば、シロウとの約束を半分は果たしたことになるのだ。
 そこで彼女ははたと気付いた。己の寝床は、少女に提供したままだ。自身はどこで寝ることにしようか。バーサーカーを呼んでその腕の中、なんてのも良いかもしれない。でも、できればふかふかのベッドの上で心地よくぐっすり眠りたい。思案しながら、イリヤスフィールは元来た道を引き返した。その身が、今までにない心から来る疲れに全身を冒されているとも知らずに。

 彼女はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。例え幼き身であろうと、彼女は確かにアインツベルンの名を継ぐものなのだ。だから、彼女は自信の弱さに気付かぬまま動き出す。アインツベルンの名の下、聖杯としての役割を果たすために。イリヤスフィール自身が、イリヤスフィール自身であり続けるために。

 白き聖杯は、器を満たされぬまま動き続ける。



   ―Interlude Out―





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第4話に続く

(初版:10/24/2005)




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