「……ホントに出てこないわね」
 遠坂がひとりごちた。焦りでも不安でもなく、呆れが前面に出てきているのがやけに頼もしく思える。
「アーチャーの予感通りだったな。……当たってほしくなかったけどさ」
「は?」
 信じられぬモノを見た、とでも言いたげに遠坂がこっちを見ている。それは遠坂があの影の正体に気付いていないからなんだろうか。それとも、気付いていて敢えて気付かないふりをしているからなんだろうか……。



   ――笑顔の向こうに――



 結局、夜の見回りの成果は出なかった。黒い影は現れず、アサシンやライダーが姿を現すこともなかった。ライダーは桜の近くで隠れているのかもしれないが……アサシンが姿を現さないのは不気味だ。以前俺を生かしたように、遠坂も生かすことが臓硯の目的に適うのだろうか? それとも……一抹の不安が頭をよぎる。
 桜自身が今どうなっているかはしらないしわからない。ただ確実にその傍にはイリヤがいて、臓硯はおそらく桜を取り返す機会を虎視眈々と狙っていることだろう。ならば、アサシンはイリヤを狙っているのか。その可能性は捨てきれなかった。

 見回りを終えて俺の家に戻ってきた後、遠坂は帰っていった。俺の家にいるよりはずっと安全なのは間違いない。もっとも結界一つあれば遠坂は十分安全だろうけど……アサシンの気配の消し方を考えれば、用心するに越したことはないはずだ。
 寝る前に鍛錬をすべきかとも思った。だが、魔術回路を起動しようとすると神経が焼き付いたように熱く痛む。何かがおかしい。アーチャーと戦った時に無理をしたせいだろうか。宝具なんてとんでもないモノの投影。あれほどの無茶をしたのだから、ありえない話ではない。だとすれば、これ以上はやめておくべきか。そう考え、結局布団に入った。

 明日。黒い影が現れれば、おそらくイリヤは失敗したということになる。もしそうなったら、その時俺はどうすればいいのか。
 未だ結論の出ぬ問いを繰り返しながら、訪れる微睡みの中に身を委ねていった。





   ―Interlude―



 差し込む朝の日差しの中、城は恐ろしく静かだった。
 元々魔術師の根拠地であるこの城周辺は、その異常を察知するのか動物の影は稀だ。だがそれを考えてもなお、この静けさは平生とは言い難い。まるで息をしているものさえないかの如く。

 じわり、じわりと体内を咀嚼されていく痛みで間桐桜は目を覚ました。それは比喩表現ではない。肉体的には比喩表現であるのかもしれないが……しかしながら、現実に彼女の肉体は内部から蝕まれる。ただしそれは、今日突然始まったことではなかった。
 彼女は幼い頃から既にその全身を刻印虫によって侵され、それの作る疑似神経により蝕まれてきている。だからどれだけ苦しくとも、彼女にとってはそれこそが日常に他ならない。そんな彼女だからこそ今の自分に疑問を持った。どうして、今頃になって目が覚めるほどの痛みを感じたのか、と。
 もちろん彼女は常に痛いと思っていたし、耐えられなくなりそうになったことだって幾度となくある。問題はむしろ、その痛みを強く感じてしまう状況の方にあった。
 ――――どうして、先程までは痛いと感じなかったのか。
 その答えを彼女は知らない。目まぐるしく変わる状況に翻弄され、ただ耐えることしか選んでこなかった彼女にそれを知れと言う方が無理な話であろう。そしてその答えを知っている白い少女は今、彼女の傍にいなかった。

 時がただ流れる。身を起こすほどの力も気力もなく、彼女はただぼんやりとベッドの中に身を沈めたままだ。息をするだけでも辛いのだ、もし動き出せばおそらく――――。

 コンコン、とノックの音。その後聞いた声に、彼女は驚きを覚える。

「準備できたよ……って辛そうね、サクラ。もうあれぐらいの魔力じゃ足りないんだ」
 イリヤスフィール。その姿を見た瞬間、桜は昨日までのことを思い出した。
「あれぐらいの……魔力?」
 何のことか分からなかったのだろう、桜は辛いのもかまわず口に出してしまった。途端、先程以上の苦痛が全身を襲う。あっという間に、昨日に近い状態に逆戻りだ。だが、それで桜はなんとなく理解できた。イリヤスフィールが、何らかの方法で魔力(エサ)を補給してくれたのだということに。
 口を開いた途端、苦しげに全身を震わせる桜を見て、これ以上待つのは無理だとイリヤスフィールは判断した。もうあと二時間待てば、魔力が最高潮となった時に魔術を行使することが出来る。だが、それをしていては桜の肉体が持ちそうにない。
 そう、これほどの苦しみを与えられてなお、桜の精神は肉体より先に音を上げようとしない。決して崩れることの出来ない心。粉々にひび割れたガラスを無理に固め直して焼けば、丁度そんなものができるのかもしれない。それはどれほど恐ろしい忍耐力だろう。イリヤスフィールは哀しみを感じる以上に恐れを覚えた。
「バーサーカー、桜を運びなさい」
 イリヤスフィールが命令を伝えると同時にバーサーカーが現れ、桜を両手で抱え上げる。その巨躯に、バーサーカーというクラスに似合わぬ、繊細な動き。それは果たしてヘラクレスという英雄だから可能だったことなのか、それともイリヤスフィールがマスターだからこそ可能なことなのか。運ばれる桜に浮かんだのは、そんなとりとめのない疑問だった。



 その部屋は城の中心部にあった。豪華絢爛を形にしたかのような城の中の一部屋。しかし入り口は頑丈な鉄の扉で塞がれている。それは侵入者を阻むためか、それとも牢獄か。
 イリヤスフィールの居室を魔力の集中する場だとするならば、この部屋は余計な干渉を遮断する場だと言える。入り口が一カ所しかないため外敵の侵入を阻むのに向き、また、周囲の壁に刻み込まれた魔術が周囲からの邪気や霊などを防いでいるなど、もっとも集中しやすい環境を整えていた。
 部屋の中央には、手術台のような物が二つ置かれている。一方に乗っているのは一見何の変哲もない人形であり、他方は何も乗っていなかった。そして桜は空いている方の手術台に横たえられる。それもまた、巨人に似合わぬ繊細な動き。しかし次の瞬間、バーサーカーの姿はかき消えていた。
「今からすることを一応説明しておくわ。何も知らないままだと驚くでしょ」
 遅すぎる、と桜は思ったが、口にするのはやめた。イリヤスフィールの機嫌を損ねるのは怖かったし、口を開けるほどの気力もなくなっている。ここにいるのが衛宮士郎(せんぱい)であれば、無理をすることも厭わなかっただろうが。
「簡単に言うとね、サクラの魂をこの人形に移すのよ。サクラの肉体を修復するのは既に聖杯でも使わないと無理なんだけど、それができないから一度肉体だけ破棄させてもらうの。しばらく待ってもらうことになるけど、人体と同等の人形を見つければサクラはほぼ元に戻れるわ。少なくとも、今よりはずっと人に近くなる」
 桜は少し驚いた。これほど桜のことを案じた試みを、まさかイリヤスフィールが成すとは思ってもみなかったのだ。そしてそれが誰のためかということが、やはりチクリと棘となって桜の胸に刺さる。
「だから、桜には当分この人形に入ってもらうけど……いいでしょ?」
 少し不安げにイリヤスフィールは尋ねた。受け入れられるかどうか、間違いなくイリヤスフィールは不安に思っている。こんな表情も出来たのかと、桜はまた少しイリヤスフィールに対する認識を改めた。
「……それで、先輩を悲しませなくて済むんですよね?」
 無理をして桜が口からひねり出した言葉に、イリヤスフィールは安堵の表情を一瞬見せ、それから力強く頷いた。だからだろう、イリヤスフィールが気付かなかったのは。桜がその表情を見て、暗い思いに沈み込んだことに。
 この瞬間の桜の心に浮かんだもの、それは羨望の一言に尽きる。イリヤスフィールは衛宮士郎の隣に――もっとも欲しくて、そして自身が汚れているが故に近づけない場所に――立とうとしていることが、その表情から読み取れたのだ。
 ――姉さんも、目の前の少女も、わたしの欲しいものをみんな持って行ってしまおうとする。わたしが、けっして手に入れられないものを。このままだと簡単に大切なものが奪われてしまう。奪われてしまうならば、それぐらいなら、いっそ――――。
 最後の叫びは、心の中でさえ形にならなかった。

 移し替えそのものは、ひどく呆気ないものだった。一つの魔術を行使するだけなのだ、呆気ないほど短いのは当然だろう。だが万に一つの可能性であろうと、失敗は許されないのだ。自身の命の遣り取りは難なく乗りきって見せたイリヤスフィールも、さすがに緊張の色は隠せない。額を大きな水滴が伝う。それでも、彼女は重圧に見事に耐えきり、成功させてみせた。
 桜の魂の入った人形を大切そうに抱え、イリヤスフィールはバーサーカーを再び呼び出した。桜の肉体という、あの呪いの触媒を完全にこの世から消し去るためである。その時同時に死んだ英雄の魂は回収され、自身は聖杯として機能し始めるはずだった。
 だが。

「カカカ。そうはさせぬわ、アインツベルンの小娘よ。せっかくアレと繋がったこの体、処分するのはあまりにももったいないのでな」

 低いが、確かに桜の声。
「……ゾウケン。――――どう、して」
 突然の事態。予期せぬ事態に、一瞬イリヤスフィールの思考は止まる。瞬間飛来する、黒い絶対死。一瞬の虚をつき、アサシンが扉を開けて侵入してきたのだ。そして、それにイリヤスフィールは気付けない――――その一瞬を狙うことこそ、アサシンの真髄である。故に避け得ない、漆黒に塗られた短剣、三連。それは風切り音さえ残さず獲物を貫く暗殺者のための牙。そしてこの瞬間、黒い凶器は白い少女をその毒牙にかけんとし――――間に現れた巨大な背中に全てをはじき飛ばされた。
「バーサーカー……」
 イリヤスフィールはまだ驚きに放心し、目を見開いたまま。その紅い瞳が微かに揺れている。それも当然だろう。魂を移し終えた後の、魂のない肉体。それが突然しゃべり出したのだ――――それも、最悪な人物の声で。
「いやはや、これは儂にとっても予想外の事じゃて。次を見越した実験作が本物を越えてしまったのじゃからな。さらに、運の良いことにコレは中身と繋がった。……これほどの物、捨てるにはもったいなくての」
「……サクラは、物なんかじゃない。覚悟しなさいマキリ、絶対許してあげないんだから!」
 瞬時、バーサーカーの手に大剣が現れる。同時に振るわれた一閃は、衝撃波だけで簡単に人を吹き飛ばせる一撃。しかしアサシンはそれよりも一歩早い。臓硯を――間桐桜の姿をした、臓硯を――その左腕で抱え、斬撃が届く範囲から離脱する。後を追う衝撃波、しかしそれもアサシンは避ける。風除けの護り。セイバーの風王結界をも凌ぎきったそれは、夜バーサーカーの剣風も逸らしてしまったのだ。続いてくる第二撃、それもまた同様。狭くはないと言えここは室内、巨躯を誇るバーサーカーには不利である。だがバーサーカーとて後に引けぬ。引けば主が殺される。だから常に、彼女と敵の間に自身の体を置く。それこそが唯一の、彼女を守る方法であると言わんばかりに。
「……ふむ。コレでは埒が明かぬか。仕方なかろうのぉ……」
 臓硯の目が怪しく光った。その顔が僅かに歪んでいる。
 ――――まずい。このままでは、間違いなく、喰われる。
 判断は一瞬だった。イリヤスフィールは桜の魂が入った人形を抱きしめると命じる。
「バーサーカー、今すぐこの部屋から撤退しなさい!」
 言葉が放たれると同時に、イリヤスフィールの全身に光が浮かび上がった。しかし、次の瞬間にはその何割かが輝きを失う。令呪の使用。三回のみ許される絶対権。それを使うべき場面を、少女は過たず見抜く。瞬時、バーサーカーは光のごとき速さで疾走し、己が主人と共に部屋を脱出した。
 爆発。
 そう、それは爆発だった。脱出の直後、部屋で起こった現象。まさに『泥』の爆発。一瞬にして泥が部屋から溢れかえり、さらには飛び出してきたのだ。それをバーサーカーは間一髪で避け、距離を取る。しかし泥はそこで止まった。
 溢れかえる、黒より黒い泥。その泥を見た瞬間、イリヤスフィールは吐き気を覚えた。その泥は、泥であって泥ではない。人の心の奥に潜む負の感情。そうした心の汚泥が形を成し、現実を浸食している物なのだ。そして呪いにまで昇華された汚泥は、劇薬程度の代物ではない。存在するだけで悪影響を及ぼすであろうし、触れれば魂の髄まで食い荒らされかねないのだ。元々英霊であるサーヴァントなど、触れればひとたまりもないであろう。それほどあの泥はまずい。
 嫌な予感はしていた。かつて教えられた、聖杯の中身を汚染する存在。その正体を考えれば、こうしたことは予想できたかもしれない。それを想定したがために、今回の聖杯には人が使われたのだから。だが、それでも……こんなもの、人の手に負えるはずがない。大聖杯だって本当に使えるのかどうか。精神を、魂を汚染されて死ぬだけかもしれない。それはあまりにも間近に見える破滅。だから、急に全てが怖くなった。

 恐怖を感じていたのはイリヤスフィールだけではない。聖杯の中身を使用した臓硯もまた、恐怖の中にいた。奪い取ったばかりの自身の体を呆然と眺めている。
 本当はただ、逃げ道を作るだけのつもりだった。聖杯と繋がって得た力を使えば、あるいはバーサーカーを葬れるかもしれない。万が一の可能性とはいえ、考えなかったと言えば嘘になる。だが、せいぜい逃げる隙を作るぐらいであろう、と高をくくっていたのだ。
 だが、現実は違った。あのバーサーカーであろうと容易に取り殺せるほどの呪い。それがたやすく動かせたのだ。手に余るほどの、大きな力。しかし臓硯はそれに恐怖したわけではない。浸食。力を使おうとした瞬間から、聖杯の中身は聖杯たる体を蝕んできたのだ。
 今の臓硯は、正確にはその体を直接動かしていない。魂を移し替える時に残された、僅かな欠片。それと体が記憶する魂の形を利用して、上部から間接的に操る形を取っているのだ。だから、耐えられた。浸食は肉体だけではない。魂を、精神を食らいつくさんと呪いは浸食する。残滓をエサにしなければ、自身が喰われて終わり。いや、それを越えてきた呪いさえあった。いつ自身が飲み込まれるか分からない恐怖。それはこの数百年において、英霊と対峙した時以上に死を感じさせる一瞬であった。だからこそ臓硯は恐怖する。なんという物に手を出してしまったのだろうか、と。例え不老不死ににどれだけ近くなろうと、この手段だけは取ってはならなかったのか。それほどの恐怖を臓硯は抱いていた。
 そして、臓硯はもう一つ恐怖する。実験作であり次代のマキリを産む胎盤となるはずであった桜。彼女はこれほどの化物を内に飼いながら、なお正気を保っていたのかと。予想を遥かに超えた我慢強さ。自身がそうさせたとはいえ、想像の域を超えている。はたして化物とはどちらだったのか。その事実もまた、臓硯の心を恐怖で縛り付けていたのだった。
「魔術師殿。ここにいては御身も危うい。小娘が体勢を立て直す前に引く方がいいのではないか」
「ム……確かにな。もう一度力を使うのはちと骨じゃ。しかし惜しいのう。あの狂戦士、早めに始末したかったのじゃが……」
 最後の音が喉を飛び出るのを待たず、アサシンは桜であった体を抱える。そして先程バーサーカーが飛び出た入り口を通り抜けると、最も近い窓に駆け寄った。サーヴァントにとって、城程度の高さなど関係ない。即座に空いた手でガラスをたたき割ると、アサシンは外へ飛び降りた。浮遊感。落下の際に僅かにうまれる誤覚。しかし、それを心地よいと感じるほどの余裕はなかった。
 状況としてはアサシン側の方が有利である。聖杯の力を使わずとも、恐れからイリヤスフィール側が崩れるのは間違いない。アサシンはバーサーカーには敵わないだろう。だが、マスターを狙えばほぼ確実に仕留められる。だから余裕があれば追撃をかけるべきだったのだ。しかし現実はそうなっていない。 
 アサシンは嫌な予感を振り払えずにいた。時には霞のようにかかり、時にはタールのように絡みつく気持ち悪さ。それの正体が掴めず、ともかくその場を離れようと彼は駆け続ける。しかし、彼は気付くことが出来なかった。彼を包み込む悪寒の源が、彼が抱える主に対する恐怖だということに。

 だが、そんな感情はすぐに隅に追いやられる。森の中を駆けるアサシンは、平行にひた走る存在に気付いたのだ。そして徐々に距離が詰まる。次の瞬間、森の木々の間を金属の衝突音が走り抜けていった。



   ―Interlude Out―





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第6話に続く

(初版:10/25/2005)




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