その日の目覚めは、不思議なほど静かだった。姉のような存在である人は来ない。そしていつもなら居るはずの、妹のような存在である彼女は……。
 妹のような、という表現は烏滸がましい。家族のように思うなら、どうしてもっと知ろうとしなかったのか。彼女の闇から目を逸らしてきた。今だって、どこかで考えないようにしている俺がいる。守りたいと言いながら、守るべき何かさえ見えない愚か者。まさしく自分はそんな存在だっただろう。
 だから、以前のままではいられない。桜のためにも。そして俺の罪を背負ってくれた、イリヤスフィールにも……。



   ――笑顔の向こうに――



 いつものように朝食を作る。いや、いつものようにと言うと語弊があるだろう。いつもならもっと量を作る。この家に集まる、家族とも言うべき人たちのために。それに何より、いつもなら隣に彼女が居る。当たり前のようになっていた日常。当たり前ではなかった生活。今更そんなことに気付かされた。
 多分、精神的にはまだ参っている。それでも再び立ち上がれた。イリヤはきっと、俺ではできない何かを成し遂げるために戦っている。押しつけた俺が滅入っていては、彼女にもその決意にも申し訳が立たない。ただ、何もできない現状はひどく歯がゆかった。
 午前。何もしないよりはましだと、道場で鍛錬をしてみる。しかし、俺一人でやったところで大した意味はない。どれだけ鍛えようと、その上限はたかがしれている。サーヴァントは過去の英雄。彼女たちは常人ならざる力を持ちながら、それでいて自身を磨き上げてきた猛者たちなのだ。付け焼き刃で勝てるわけがないというのは、いやと言うほどに思い知らされてきた。もしいつの日か届く場所であったとしても……それが今日明日ではないことは明白だった。
 もし彼女がいれば、せめて危機を回避する術だけでも……そこで思考を断ち切る。彼女を失ったのも、俺の咎だ。どうして彼女のことを思い描ける。俺のせいで失ってしまったというのに。

 魔術の鍛錬に切り替えよう、と思い立ち道場を出る。低い位置から差す陽光が、目に刺さって眩しい。顔を顰めながら、今日は不思議によい天気なのだということにやっと気付いた。何かいいことがある前触れだろうか。だとしたらどんなにいいだろうか、と嘆息し土蔵に入る。未熟な魔術――強化と投影が使えるようになれば、最低限とはいえ身を守れるようにはなるかもしれない。ならば、まだそうする方が価値がある。
 しかし現実というのはそう甘くない。強化は相変わらず成功率が低く、実戦で使えそうにないままだ。そして昨日、恐ろしいほど上手くできた投影も……あのようなできには程遠い。比較的ましな弓兵の双剣でさえなまくら刀にしかならず、大半は包丁にさえ劣る有様だった。
 冷静に考えれば、この鍛錬は明らかにまずい。魔術の錬成はちょっと間違えれば命を落としかねないものだ。だというのにそれに臨む精神はどうだったか。明らかに普通ではない。いつもならそのことに気付けたはずだ。だが、今はそれができなかった。
 力尽きて、地面に背中から倒れ込む。無理をしたせいだろう、体が睡眠をほしがっていけない。一眠りすれば落ち着くだろう。そう思って、目を閉じようとした。

 目に入ったのは、紫色の髪。

 あ、と思った瞬間にはもう視界から流れ去っている。だが見過ごせない。その正体にすぐに思い至ったからだ。
「ライダー!?」
 休みたがる体に鞭を入れ、無理矢理起き上がる。しかし、もう彼女の姿はない。いったい何故彼女が姿を現したのか。疑問の中、土蔵の外に飛び出した。瞬間目に入ったのは――――。

「桜!?」

 地面に倒れ伏す、間桐桜の姿だった。





   ―Interlude―



 ――――数刻前。

 森の中の攻防、それは瞬く間だった。アサシンが次々とダークを放つ。だがそれらは鎖でできた蛇に飲み込まれ、叩き落とされた。それを機に両者は立ち止まり対峙する。アサシンはじゃまにならぬよう守りやすいよう、マスターを自身の後ろに降ろし立たせた。
「ラ、ライダー!? どうしてわたしを攻撃するの?」
「……茶番はやめなさい。マスターの異変、サーヴァントが気付かぬはずはないでしょう。マスターとの繋がりは令呪と魔力のみではない。それはこの令呪システムを作り上げた貴方こそよくご存じなのではないですか? マトウゾウケン」
 両者の間に一陣の風が吹き抜ける。旋風のように巻き上がったそれは緊張が強いたものか、それともライダーの怒りが呼び寄せたものか。鬼気迫るライダーの視線――目隠しの下にあるはずだというのに強く感じられるそれを、アサシンは軽く受け流す。髑髏の面の下にある表情は窺い知れない。
「カッカッカッカッカッ。なるほど、たしかに孫娘のサーヴァントであるお主が気付かぬはずがないな。いやはや、残念じゃ」
「……サクラの口を使って語るのをやめなさい。これ以上そのような行為を続けサクラを汚すのであれば、即座にその身をこの世から消滅させましょう」
「……ほう? ワシを消滅させると?」
 意外そうに、臓硯は眉をつり上げた。それを見て、ライダーはさらに怒気を強める。臓硯が桜の姿をとって行う一挙一動、その全てが許し難い。できることなら目の前のそれを今すぐ消し飛ばしたいが……事情を把握し切れていないライダーには、それができなかった。
「もし貴方が今すぐその体を明け渡し、桜に返さないのであれば。この身が悪鬼に堕ち果てようとも」
 瞬間、臓硯は笑いを止められなくなった。いま、ライダーはなんと言った? 桜にこの体を返す? 
「……その笑いをやめなさい。サクラの声でそのような奇怪な笑い声を上げるなど……」
「……哀れだな、ライダー。主の身に起こった出来事さえ正しく把握できぬとは。それとも意図的に目を背けたか?」
 アサシンの嘲笑に、ライダーは嫌な予感を覚えた。確かに、彼女は城で起こった出来事の真実を知らない。わかるのは、桜の身に何か異変が起こり、今はその体を臓硯が支配しているということのみ。
「何が違うというのです、アサシン」
「返すという発想そのものがおかしいのだ、ライダー。魔術師殿は捨てられた玩具を拾ったにすぎないのだがな」
「捨てられた?……どういうことです、アサシン」
「それはアインツベルンとやらの小娘に聞くのだな」
 ライダーは動揺を隠せない。それは目の前にいる者を倒す必然性がなかったからでも、桜の側に今いないからでもなく。桜と自身の間に存在するはずの絆そのものが揺らいだかのような錯覚を覚えたからだ。桜がどうなったのか、その事実を確かめずに行動してしまった自分。それを糾弾されているかのように感じ、ライダーは平静さを保てない。
「なるほど。勘違いをしていたことは認めましょう。しかしながら……だからといって、貴方達を見逃すつもりはない。サクラを苦しめた罪、この場で償いなさい!」
 ダガーが煌めき、鎖が長き蛇へと変貌する。宝具ではなくとも、ライダーの怪力によってそれは十分致命的な武器へと変わるのだ。チャリリ、と無機質な音を立てながら鎌首をもたげた蛇は襲いかかる。だが、それは。
「激昂……所詮まがい物の神か。なるほど、貴様は私より格上だろう。だが……」
 主を棒のような腕で抱えて呟きながら、アサシンは短剣を投擲した。その一本一本に秘められる力は人を殺めるには十分だが、いかんせん微量すぎる。それでもアサシンは数本を同時に放った。
「クッ……!」
 小さな刃が、一本ごとにダガーの回旋運動を狂わせていく。鎖の動きを見切って予測し、その速さに追従しない限りできない芸当。だがそれをアサシンは難なくこなしている。それも、同時に後退しながらだ。神速のライダーといえど、その武器を振るいながらであれば、速度を落とさざるを得ない。そしてその速度ならば、アサシンも後れをとることはなかった。一本、また一本。必殺のはずの曲線は、その姿を乱され返った。
 そうして打ち合うこと十数回。先に動きを止めたのはライダーの方だった。
「……今はサクラの方が重要です。彼女を助けた後、確実に……」
「そうはさせぬぞ、ライダー。お主の力も必要じゃてな」
 桜の姿をした老魔術師は、地面に降ろされるとライダーに向けて手を伸ばした。その姿はどこか神秘的な儀式を思わせる。そしてその腕には――――残された、最後の令呪。桜との絆の残滓がそこにあった。
「……試してご覧なさい。令呪であろうと私は縛りきれない。どのような命をくだされようと、その瞬間貴方の首をねじ切りましょう」
 令呪の存在。よく考えれば当然ではあるが、それでもライダーは少し驚く。しかし今度は動揺にまで至らない。望まぬ戒めに縛られる――――それはかつて経験し、同時に自己の意志で破ることもできたものだ。
「威勢が良いな、ライダー。だが、その理性を奪われてなお、お主は逆らえるかな?」
 理性。それは霊長を霊長たらしめる所以である。もしサーヴァントから奪われれば……後に残るのは本能のままに戦う人形でしかない。それは底上げのないバーサーカーに等しいだろう。そしてバーサーカーの例を見ればわかる通り、理性を失ったサーヴァントは基本的にマスターの命に対して忠実となる。逆らおう、という意志は理性から来るものなのだ。だから臓硯は決断を下した。ライダーから、理性を奪うという決断を。
 もっとも、これは一か八かの決断である。まず、理性を奪いきれるかどうか。これは令呪を行使した者の魔力によるといえる。だが……令呪システムを作り上げたのはマキリだ。おそらく、老魔術師にとってそれ自体は造作もないことなのだろう。
 だがここにもう一つの問題が残る。理性を失ったサーヴァントはどの程度の強さを保てるのか。宝具も本来の使い方などできず、技巧も失われただ暴れるだけの存在。能力の底上げもなく戦力として使えるのか。……もっとも、この時点においては大した問題ではないかもしれないが。
「命ずる、ライダー――――」
「ゾウケン……キサマ!」
 怒りか、恐れか。おそらく両方。ライダーは感情を爆発させ、その魔眼を解放するとともに襲いかかる。石化の魔眼。その瞳に魅入られた者は即座に石化してしまうしかない、神域の魔眼。だがしかし……それを知っている臓硯とアサシンは、僅かの間ながらそれに耐えた。そしてアサシンは残りの短剣を一斉に投擲し、ライダーの動きをその空間に止めようとする。ほとんどは釘に、鎖に弾かれ、あるいは避けられたが、それでも僅かにライダーの動きが鈍った。さながら、針で留められた蝶のごとく。そうしてできた、一片の間。
「――――理性を失え」
 腕の赤い痣が消える。同時にライダーの動きが止まった。その場に立ち止まったライダーの瞳から、徐々に意志の色が消えていく。僅かに残る力で、ライダーは臓硯を睨み付けた。その憎悪……堕ちた女神の強い意志に、臓硯は己の心を焼かれたかのように恐怖する。だが時既に遅く。ライダーは魔眼に替わり、その理性を封印された。
「……神を名乗る痴れ者は獣に身をやつすがいい。神は唯一絶対にしてただお一方のみ」
 アサシンは哀れむように呟く。同じサーヴァントとして、その不遇を悲しく思う気持ちもあるのだろう。だが、髑髏の面の下にある彼の顔は笑っていた。神とは、このような人と変わらぬ者に使っても良い称号ではない。何より、形をとった時点でそれは神ではないのだ。だから彼は主に感謝の念を強く抱き、その忠誠をいっそう強くした。そして呟く。
 アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)



   ―Interlude Out―





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第7話に続く

(初版:10/25/2005)




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