桜を無理矢理部屋で寝かしつけ、ようやく一息つく。そういえば今日は昼食を忘れていた。力も足りていないのでは、土蔵で一度力尽きたのも当然だ。とはいえいつの間にか夕刻が近い。桜の分も含め、夕食は元気が出るものにしよう……そう思い立ち、冷蔵庫の中を覗き込む。
 倒れていた桜。彼女はうわごとのように言った。イリヤスフィールに殺されそうになり、逃げ出した、と。耳を疑った。どうしてイリヤが桜を殺そうとしたのか。イリヤのあの時の言葉は嘘だったのか? それとも……。だが、桜が嘘を言っているとは、どうしても考えにくい。
 脳裏に黒い影がちらつく。だが、それでどうなるというのか。あの時のイリヤと、目の前の桜。少なくとも、どちらかは嘘をついているはずだ。だとしても、目の前の少女と、あの時の赤く、真摯な瞳。どちらを信じればいいのか。できればどちらも信じたい。だが、それはどうしてもできない。



   ――笑顔の向こうに――



 門を閉め、鍵をかける。太陽が低い。空が朱い。風は冷たく、暗闇が追いかけてくる、そんな夕暮れ。自然と足取りが速くなる。商店街まで、距離はそこそこある。できれば暗くなる前に帰るべきだ。
 いつものように買い物をしていく。急ぎ足なのに、どこか上の空。何を買ったかさえ思い出せなくなり、何度も荷物を見直した。そうして買い物を終えた時。
「あ」
「え」
 イリヤスフィールとはちあわせた。
 いつも通りの服装。違うのはその腕にぬいぐるみを抱いているぐらいか。それがいつも以上に幼く見えて、ちょっと驚いた。
「お兄……ちゃん……」
「イリヤ!」
 無意識に彼女に詰め寄る。その勢いに驚いたのか、イリヤはびくっと体を震わせた。そして少し後ずさる。顔に怯えが浮かぶのを見て気付いた。多分、俺の顔は相当険しくなってる。
「どうして……どうして……」
「え?」
「どうして……桜を、殺そうとした?」
 呆気にとられて、イリヤが俺を見ている。そしてすぐに浮かぶ驚きの表情。
「俺を騙したのか? 初めから……そのつもりだったのか?」
「ちょ、ちょっと待って、シロウ。どうして――――」
 狼狽を見せるイリヤ。それで俺の中で結論が出た。
「どうして知っているか? 桜が教えてくれたよ。ライダーが桜を連れてきてくれて――――」
「サクラが!? サクラがシロウの家にいるの!?」
 それまでは呆然としていたイリヤが、突然食ってかかるように大声を出した。その剣幕が今までに見た彼女の印象と重ならなくて、困惑を覚える。
「……そうだよ。だから、もう、全部わかった」
「――――違う! 違うよシロウ、それは――――」
「言い訳はしなくていい。嘘でも、ああ言ってくれたのは嬉しかったから。……じゃあな」
「待って。待ってよ、シロウ!」
 踵を返し、訣別を口にすると走り出す。もうこの場にいたくなかった。今のが最低な行為だなんて事は分かる。相手の言い分も聞かず、一方的にまくし立てた。最後のイリヤの声なんて、泣きそうだったというのに。
 それでも、どうしようもなかった。どちらを信じるか……それはやはり、桜の方だ。彼女が嘘をつく方が、俺には信じられなかったというだけの話。
 走りながらも胸が痛む。イリヤにも何か事情があったのではないか? それを聞いてからでも遅くはないのではないか? それは当然の疑問。実際、そうすべきだったのだとは思う。
 しかし、イリヤは魔術師として俺よりずっと上だ。立ち去るのが遅ければ、眠らされ連れ去られていたかもしれない。それになにより、あの驚いた表情。嘘が既にばれていることに気付いていなかったため、虚をつかれてそうなったのだと。そうだとしか思えなかった。



「桜、入るぞ?」
 告げてから、ゆっくりと扉を開ける。ノックした時に返ってきた声は少し明るかった。僅かな時間ながら眠ったことで、少しは体力が戻ったのかもしれない。
「はい、どうぞ」
 部屋に入ると、桜は顔の上半分だけをベッドから覗かせていた。
「寒いか?」
「いえ、ちょっとこうしていたかっただけなんです」
 落ち着いた受け答え。
「そっか。だいぶ元気になったみたいだな」
「そうですか?」
「ああ。以前と……」
 続きが言葉にならなかった。以前と変わらない調子。それは重大な変化だ。そしてありえない。ありえるはずがない。だって、■■■は■■■だ。だから、これはありえない事。

『わたしには無理じゃないかもしれないもの』

 突然そんな言葉が蘇った。
 もしそうだとすれば。俺は、彼女になんと言って謝ればいいのだろう――――?





   ―Interlude―



 まずは香り。そして一口。それだけで美味しいかどうかなど分かる。そして、悔しいことにアーチャーの入れる紅茶は相変わらず絶品だった。
 ふう、と凛は息を吐き出す。それは溜息。だが、出た理由ははたしてそのおいしさからか、それとも憂う事柄からか。実際は後者なのであるが、凛は前者だと自分を騙した。
もう一口飲んでから、そういえば、と思い出す。アーチャーは契約した次の朝にも、紅茶を淹れてくれた。あの日の時点で既に悔しいぐらいに美味しかったのは覚えている。だが、今日の方が味はずっと上だった。茶葉を変えたわけでも、水の味が変わったわけでもない。まさか、腕を上げた? それとも、勘を取り戻しただけ、ということか。
 それでも、今の凛はその味を素直に楽しめない。懸案事項が多すぎる。記憶が戻ったはずだというのに黙して語らない己のサーヴァント。イリヤスフィールや間桐臓硯の動向。そして何より、あの黒い影――――アーチャーは確実にその正体に気付いている。そして衛宮士郎もまた。自分だけ勘が鈍いのかと、少々苛立ちを覚えたのも無理はないだろう。
 だがそれも仕方ないことである。アーチャーは元々ああいった災厄を相手に戦ってきた存在だ。だからアーチャーは一際早くその正体を察していた。そして衛宮士郎。彼は十年前の大火災を経験しており、その際に僅かながら聖杯の中身を知っている。感覚的なものであり、それは本人も気付けぬほどの形だが……それでも、人よりは気付きやすい立場にあったのだ。だから、凛が気付けないのは仕方のないことであった。
 はぁ、と溜息を吐いて紅茶をもう一口。それから凛は思考を切り替え、己のサーヴァントについて考える。
 アーチャーは相変わらずその正体を教えない。だから夢からその真名を推測するしかないのだが……おぼろげながら、その可能性には思い当たっていた。ただ、信じたくないという思いはある。なぜなら、その最期があまりに救われないものだったから。全ての人を救おうと戦い、裏切られ、力のなさを嘆き、それでも最期に人を救えたことで満足して死んだ。そんな人生を彼が歩むとは思いたくない。彼は死ぬ時、満足から笑顔を浮かべていた。それは今の彼を見ればごく自然なことにも思える。でも、それは許せない。そこには、本当の自分の幸せが欠けていると思うから。
 あっという間に夜の帷は落ちる。昨日はアーチャーの言葉通りあの影は現れなかった。だが、今日も現れないというのはさすがに甘すぎる考えだ。だから凛は立ち上がり、途端アーチャーに名を呼ばれた。
『凛。まずいことになった』
『……どこ? 現状はどうなってるの?』
 一瞬、アーチャーが躊躇いのようなものを見せた。それを凛は訝しがる。そして口を開こうとした時、アーチャーが口を開いた。
『場所は……衛宮士郎の家。奴が無事かどうかは分からん』
 急いでいかなければ、と凛は思う。だが、体は思うよりさらに速く動いていた。急いで家を出よう、と思った時にはもう家を出ていた。意識にも先行して動く。それはつまるところ、焦りなのだろう。アーチャーは霊体化したまま、黙って横に連なっていた。
「アーチャー。とりあえず先行して。わたしもすぐ行くから」
『了解した、凛。……油断は、決してするな』
 言い残し、アーチャーの気配が先行していく。あと数分。何とか生き残ってくれ、と願いながら凛は走る。自慢の長い二房の黒髪が、闇に溶け込むように流れていた。



 戸にそっと手をかける。越えてしまえばもう戻れない。それでも前に進むしかない。だから、彼女は扉を開ける。
 そこで彼女ははたと気付く。どうして躊躇していたのだろうかと。答えは決まっている。最悪の事態が、既に起こっているかもしれないからだ。見たくないものを見せつけられる可能性に逃げたくなる。だがそれはできない。己がサーヴァントの名を呼ぶと同時に、衛宮の家に足を踏み入れた。
 予期していたのだろうか、ちょうど玄関の前に人影がある。その人影は表情を変えず、ただ彼女の名前を呟いた。

「イリヤ……」
「こんばんは、シロウ。今日で……全て終わりにしよっ」

 イリヤの傍らに鉛色の巨人が姿を現す。雲間に覗く月の影がその恐ろしさをいっそう輝かせている。
「サクラを……ううん、ゾウケンをだして。もしシロウがまだ、シロウのままなら」
「え!?」
 何を言っているのかわからない、とでも言いたいのだろうか。それとも、本当にわからないのか。どちらとも取れなくないが、イリヤは当然のごとく後者だと決め打ちした。間違っているとは思いたくない。

 その時、士郎が振り返った。そこに立っているのは、■■■。いや、違う。
「シロウ!」
 悲鳴のような声が上がった。黒い影が、その触手を士郎に伸ばす。致命的な一撃。避けようもなく、衛宮士郎は貫かれて終わる。いや、そのはずだった。だが。
投影……開始(トレース・オン)!」
 触手は干将・莫耶を完全に砕ききれない。士郎はその衝撃で吹っ飛んだものの、無傷。咄嗟にイリヤは士郎に駆け寄り、同時にバーサーカーに命じた。敵を潰せ、と。だが次の瞬間、バーサーカーは己の主の前に跳んでいた。鋼の体に黒い影がぶつかっては落ちる。同時に振るわれた斧剣が、蛇のような鎖を叩き伏せていた。
 アサシンとライダーの同時攻撃。
 ただでさえ、黒い影はサーヴァントの天敵である。特に神性の高い、純粋な英霊であるバーサーカーにとっては本来勝ち目のない相手。だというのに、それだけでなくマスターを狙う英霊が二体もいる。三対一。状況は絶望的。表情のないアサシンの顔が、笑っているように見える。

 それはある意味で一方的だった。狂戦士は立ち向かう事を許されず、ただ己が身を盾とする事しかできない。立ち向かったが最後、マスターはどちらかのサーヴァントにその命を奪われ、しかし消える前に狂戦士自身も黒い影の中に沈むだろう。だから狂戦士は失われたはずの理性を総動員し、狂うことなく背後の少女を守り続けている。
 アサシンの攻撃はもちろん、ライダーの攻撃でさえもバーサーカーの肉体は傷付けられない。だが、時折様子を窺うかのように伸びてくる黒い影の触手は弾かなければならなかった。身に受けてしまえば、落ちる。だから捨て身にはなれないのだ。
 千日手。
 いや、現実はそこまで甘くはない。千日手であるためには、どちらにとってもそれが最適解であるという条件が満たされなければならない。だがもし、黒い影がもしその力を存分に振るわんとすれば。狂戦士だけではなく、そのは以後にいる少年と少女も影に飲まれるに違いないだろう。
 イリヤは歯がみする。自身が己の従者の足手まといになっている現状に、そして解決策を生み出せない自身の思考に。だがそれ以上に怖かった。気を抜けば、もっとも頼りとする者が消えてしまいそうだったから。この状況を切り抜けられたとしても、もしバーサーカーを失ってしまったら。わたしはいったいどうなるのだろう。想像がつきそうにもない。そうして恐怖と戦っている間も、バーサーカーは手を伸ばしてアサシンの短剣を受け、ライダーの鎖を捕まえて遠くへと放り投げようとし、そこを狙ってきた触手を斧剣で打ち落としていた。
 震える手が、暖かくなる。最初はそれがどうしてなのかわからなかった。気付くと、手の甲に手の平が重ねられている。包み込む手はちょっとごつごつしていて、でも力強さを感じる。そこで初めて、イリヤは空いた方の手で士郎の服の裾を掴んでいた事に気付いた。震える自分を守ろうとしてくれる、優しくも強い手。バーサーカーとはまた違う。
 もしかして。これが■■■■なんだろうか――――。
 そうであるように、とイリヤは願う。それが暗闇に差す光であるようにと……。弄ばれているかのような現実を直視しながらも、心の中ではそういったことを願っていた。

 突如、心まで覆い尽くすかのような闇を、一条の閃光が切り裂く。
 アーチャーの放った矢。それは螺旋状に捻れた「剣」であった。どこまでも捻れながら、その芯は真っ直ぐ貫き通されている。はたしてそれが自身にうり二つだと、いつ気付くのだろうか。その輝きは黒い影へとひた走り――――その体を貫いた。だが、手ごたえなど無かったかのように剣は地面に落ちる。
「チ……新手か。一旦引かせてもらうぞ、バーサーカーのマスターよ」
 アサシンが告げると同時に黒い影が地面に沈む。ライダーはいつの間にかいない。
「■■■■■■■■■■■ー!」
 バーサーカーが吼える。神速で剣が振るわれる。だがその先にいるはずのアサシンは徐々に夜の闇に溶け、姿を消してしまった。
「フン……逃げられたようだな」
 塀の上に立っていたアーチャーが飛び降りる。仕留めきれず悔しかったのか、苦虫を噛みつぶしたかのような表情だ。
「アーチャー、おかげで助かった」
 士郎が声をかける。途端アーチャーはフッと鼻で笑い、
「別にお前はどうでもよかったのだがな。いや、むしろお前だけは殺されてくれた方が良かったか」
「アーチャー!」
 怒鳴り声が塀の外から飛び込んできた。続けざま、勢いよく門が開け放たれ、ずかずかと凛が歩いてくる。
「アンタは毎回毎回、どうしてそう……」
「あの、と、遠坂?」
「うっさいわね、何よ」
 恐る恐る話しかけている士郎、その視線の先には。門の扉が、完全に壊れていた。それも、扉そのものはこれ以上ないってくらいにきれいな状態で、吹き飛ばされて。
 まず、と凛は顔に手を当てる。士郎は呆然と扉の方を見つめたまま。そんな二人を見て、イリヤは呆れたように溜息を吐いた。
 だが、これでいい。とにかく、今は皆が無事なのだから。



   ―Interlude Out―





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第8話に続く

(初版:10/26/2005)




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