「じゃあ……その人形が、桜だって言うのか?」
 ゆっくりとイリヤが頷く。その腕に抱えられている人形も、同じく頷いたように見えた。
「ふうん。人形を持ち歩くなんてあんたには似合わないと思ってたけど、そっかそういうこと」
「あら? リン、プッペはレディが生涯楽しめる趣味なのよ。……ま、リンみたいに謹みのないレディには難しい趣味かも知れないわね」
 ぴくり、と遠坂の眉が持ち上がる。まずい。どうまずいのかはわからないが、ともかくこのままではまずいのだ。
「なあ……とりあえず晩飯にしないか? このままじゃせっかくの鍋焼きうどんが冷える」
 ふわりと空気が柔らかくなり、それぞれが手元の器に視線を落とす。先程よそったばかりのうどんは、ほとんど湯気を上げなくなっていた。
「……ところで、どうして鍋焼きうどんなの? いや、イメージと違うって言いたいわけじゃないんだけどね?」
 麺をすすってから、遠坂が尋ねてきた。ああ、それは簡単だ。
「桜……いや、俺がそう思ってただけなんだけど、調子が悪そうだったからさ。これなら食べられるかな、と」
 桜、という単語で再び遠坂の視線がイリヤの脇にある人形に移る。どうしても気になってしまうのだろう。釣られてそちらを見ると、イリヤが興味深そうにうどんを眺めていた。もしかして、食べた事がないんだろうか。箸が使えるか尋ねた時は大丈夫って言ってたけど。
 冷めないうちに食べてしまおうと、うどんを一口すすった。



   ――笑顔の向こうに――



 月を、見ている。
 静かな夜に、幼い少女の歌声が響く。どこか懐かしく、しかし知らない旋律。それを一言で表すならきっと。子守歌、というものに似ていた。

 ―――― Die sch:onste Jungfrau sitzet......

 縁側に並んで二人座り、月を見上げている。冬の夜気に晒されているというのに、案外寒さを感じない。おぼろに雲が出ているからだろうか、だとしても少し不思議だった。
 五年ほど前のこと。あの日もこうして、二人で月を見ていた。違うのは、俺がいる場所に切嗣が座っていて。俺のいた場所には今、イリヤが座っている。

 ―――― Den Schiffer im kleinen Schiffe......

 聞き覚えがあるようで思い出せない。そんな歌を、ずっとイリヤが口ずさんでいた。
 素朴で、どことなく寂しげな音色。どうしてそう感じたのだろうか、とりとめもない思考がある場所に辿り着く。
 イリヤはきっと、ずっと独りだった。待っていても帰ってくる父親はいない。それでもきっと彼女は待ち続けたのだろう。こうして歌を歌いながら。誰に聴かせるでもなく、歌うこと。それがきっと、当たり前だったのだ。だからイリヤは歌う。独りぼっちで。
 でも、今は違う。横に俺がいる。二人縁側に並んで、空を眺めるその姿はきっと。なんでもない、ごく普通の兄妹なのではないか。
 そしてここに、切嗣がいたならば。それはきっとごく普通の、当たり前の親子だったのかもしれない。こうして俺とイリヤが並んで座っていて、後ろから親父がちょっと苦笑しながらやってくる。
『二人とも、ずっとそうしていると風邪を引いてしまうよ』
 そんな言葉とともに、二人をくるむように毛布を掛けてくれて。イリヤは素直に喜ぶだろう。そして俺はきっと、こんな言葉をかけるに違いない。
『親父も入れよ、親父の方こそ風邪引くぞ』
 そうだねと親父が苦笑し、いつの間にか、みんなが笑顔になって。それはなんて幸せで、遠い夢なんだろうか。

 だからこそ。俺は、本当の彼女と向き合わなければならない。

「なあ、イリヤ」
 口に出さなければ、きっとこうして、仲の良い兄妹のようにしていられるのだろう。でもそれは結局、今だけの偽りのもの。俺が救いを求めたがために、イリヤは本心を押し殺してここにいる。そこにはどれほどの葛藤があったのか。追いつめられていた俺には分かるはずもなく、今でもなお想像なんてできずにいる。だってそうだ。
 正義の味方になるということは、イリヤが最も憎むものを肯定することに他ならなかったはずだから。
 正義の味方になれないと、そう思ったとき。あのとき芽生えた絶望感と虚無感は想像を絶していた。それは、あの焼け野原に取り残されたようなもの。そのままだったならきっと俺は完全に空っぽになり、物言わぬ人形と成り果てていたかもしれない。そしてきっと、イリヤは今そうなろうとしているのだ。
 夜風にふわりと銀糸が舞い上がる。宝玉のように紅い瞳は月をその緋色に染め上げ映し出している。
「もし、この戦いが終わって帰る所がないんだったら――――」
 それは恐怖か、怒りか。イリヤの目が微かに見開かれたのが、はっきりと分かった。
「――――この家で、暮らさないか」
 瞳が揺れる。少し考え込むようなそぶりを見せて、
「やだな、シロウってばプロポーズ? 意外に手が早いんだね」
と誤魔化そうとした。引き返すなら今のうちだという、最後通告なのかもしれない。だが逃げられない。逃げてはいけない。逃げれば、俺はまたも……。
「――――ふうん。本気なんだ、シロウ」
 イリヤの顔から感情が消え去る。睨むようなその視線は決して憎しみを乗せているわけでもなく、だからといって魔術師としての目でもない。雪。そう、今のイリヤは全てを凍てつかせる雪だった。これこそが、本当の彼女。
「それはキリツグの息子として?」
 ただの宝石と化した瞳が問いかける。
 切嗣の息子として、と言われればそうだ。切嗣ができなかったこと、切嗣が捨て去ったもの。俺は切嗣の息子だから、その責務を引き受けなければならない。だから、切嗣の息子として、目の前の少女と向かい合わなければならないのだ。
 だが。
「それが全てじゃないけどな。俺が切嗣の息子だからというのもあるし、それ以上にイリヤが好きだから一緒に暮らしたいと思ってる」
 俺は、切嗣を否定した。正義の味方ではなく、本当になりたかったものを否定した。だからこそ、切嗣が零れ落としたものを掬いたい。俺自身の意志で。
「――――それは、シロウがキリツグの代わりをするって事?」
「いや。俺は切嗣にはなれないし、切嗣の代わりなんて事もできない。別の人間だから、切嗣の代わりになってできる事なんて、何もないんだ。でも」
 そこで一旦言葉を切った。どうすれば本心が伝わるのか。俺の答えが、彼女に届くのか。考えても仕方がない、だが僅かな躊躇いを覚えてしまう。もしかすると、彼女まで否定することになるかもしれないから。でも、それでも伝えないと。
「俺は切嗣のことが好きだ。切嗣ができなかったこと、切嗣がすべきだったことを果たしたい。だから、もしも、イリヤの中に少しでも切嗣を許してもいいって気持ちがあってくれるなら――――」
 僅かに瞳が揺れた。それが何を意味するのか分からない、でも、伝えないと。
「――――この家で一緒に暮らそう。俺は、イリヤと一緒に暮らしたい。今までできなかった分を、これから取り返したいんだ」
 その言葉をどう受け取ったのか。突然イリヤは立ち上がり、俺に背を向けた。
「それは無理だよ。わたしは長生きできないし、そもそもこの戦いが終わるまで生き延びられないと思うから」
 その声は、妙に確信めいていた。
「わたしもそうしたかった。きっとシロウはそう言ってくれる、そう感じたからいろいろと頑張ってきたわ。でもね」
 どんなに頑張っても、わたしには無理だったの。そう言ったイリヤの両肩は震えていた。
「あーあ、残念。どうしてこうなっちゃったのかな。手遅れじゃなかったはずだったのにね」
「……イリヤ」
 少女のものとは思えないような、諦観の念が込められた言葉。まるで老人のようで、どこかあの日の切嗣に似ていた。終焉の香り。
 否定の言葉を口にするのは簡単だ。でもイリヤはそんなことを求めていない。終末を受け入れてしまったのなら、それを口で否定して見せた所で意味がないのだ。だが、だからといって受け入れられるはずもない。助けたい、守りたい。そう純粋に願い、俺は。
 後ろから、イリヤを抱きすくめた。
「シッ……シロウ?」
 突然のことにイリヤが暴れる。その力は恐ろしいほどに、弱かった。それでも怪我をしたりしないよう、力を入れすぎないよう気をつけながら強く抱きしめて動けなくさせる。
 細い。こんなに細かったのか、そんなことに改めて気付かされる。こんな小さく細い体で様々な危険を乗り越え、あんな巨人を使役してきたというのか。今まで思っていた以上に、イリヤは小さかった。
「俺は諦めないからな。俺はイリヤと一緒に暮らしたいと思ってる、イリヤがこの家に帰ってきて過ごせるようにしてみせる。だから、無理かどうかということは別にして考えてくれないか。この家で、一緒に暮らしてくれるかどうか」
 強ばっていたイリヤの体から、すっと力が抜けた。そしてイリヤは抱きしめる俺の腕を、ぽんぽんと手のひらで叩いた。子供をあやすかのように。
「あはは、シロウってば甘えんぼ。しょうがないなあ。わたしがいないと淋しいって言うなら、わたしも頑張るしかないじゃない」
 イリヤは少し身を捩り、俺に顔を向けぺろっと舌を出した。微かに戻った無邪気さ。それを見て、意外なほど安心した。
 しかしその灯火は瞬く間に輝きを失う。イリヤの顔が曇り、その目が遠いどこかに向けられた。
「シロウって残酷だね。そこまで言われたらわたし、もう絶対死にたくないよ。できてたはずの覚悟も、全部吹っ飛んじゃった」
 独り言のようにつぶやき、イリヤは目を閉じる。そしてぽつりと一言、おそらくこの少女にとって最も本心に近い所から出たであろう言葉が漏れた。

「恐い」

 それは決して少女が外に出せない感情だった。
 狂戦士と出会うまで、少女はずっと一人だった。それは誰も頼れないということ。弱音を漏らそうと、聞いてくれるものなどいない。聞いてくれるものがない弱音など、はく意味はないだろう。所詮、他者からの感情を受け取るための行為に他ならないからだ。孤独ならば、意味を持たない。
 狂戦士と出会ったとき、少女は僅かにその感情覚えた。だがそれも刹那のこと。狂戦士の存在は逆に、少女から恐怖というものを遠ざけた。そうして結局。
 少女は、恐いという感情を外に出せなかった。
「……大丈夫だ。なんとかしてみせる。約束するよ」
 咄嗟に俺はそう答えていた。根拠もない、ごまかしにすぎない言葉かもしれない。だが、それで終わらせない。必ずイリヤを、遠坂を、桜を守りきってみせる。そう決意して、少しイリヤを強く抱きしめた。
「それじゃあシロウ……」
 再びイリヤがこちらに顔を向ける。その瞳が、紅く怪しげな光を放った。
「一度口にしたからには、その約束は守って。魔術師に対し契約を求めるなら、その対価をわたしにちょうだい」





   ―Interlude―



 しばらく前。
 夕食を終えたあと、凛はイリヤといつ行動を起こすかについて協議していた。論題は三点。どこから、いつ、どういった人選で挑むか。このうち最初と最後はすぐさま意見が一致した。まずは大聖杯を目指し、全員で挑む。理由は簡単だ。まず、そこに臓硯がいる可能性が高い。それにもしいなくとも、大聖杯の片を付ければ相手の戦力は大幅に削ぐことができる。前者なら目的に適い、後者なら有利に状況を運べるのだ。選ぶなら、まずこの一手であろう。
 だがここに一つ問題がある。いつ攻め込むのか、という問題だ。こちらが最大限の力を発揮出来る時間を選ぶか、相手が力を最も発揮出来なくなる時間を選ぶか。微妙な問題であり、この点で意見が真っ二つに分かれた。凛はこちらが一番力を発揮出来る時間を選ぶべきだと主張し、イリヤはもう一方を主張した。それぞれの経験がそのまま主張の違いとなったのだろう。そして恐怖の差が、押しの強さに表れる。
 結局、イリヤが主張を押し切る形で、夜明け頃に出発することを決めたのだった。

 その後、凛は『桜』と共に寝室に入った。どうしようもないのに、そう思いながらも凛はそうすることを選んだ。どうしてだろうか、疑問は浮かぶものの答えは出ない。しばし考えたものの、凛は結論を出さなかった。姉だからだ、と認めてしまうのが怖かったのかもしれない。
 ベッドの上に座り、膝の上に『桜』を乗せる。よく見ようと俯いたとき、垂れ下がった自分の髪の毛が目に入った。
 ――――本当なら、桜も同じ髪の色だったはずなのに。
 そう思った瞬間、凛は後悔した。そんな思考を抱いてしまった自分の愚かさに。魔術師として生きる、その意味を誰よりも分かっていたはずなのに、感情に流された。だが……それでもいいか、とも思う。それでもわたしはわたしだ。
『桜……聞こえる?』
 念話程度ならできるかもしれない、イリヤはそう言っていた。ならばと試しに話しかけてみる。
『……遠坂先輩』
 微かに返事が聞こえた。
 どことなく棘のある声。だが仕方ないことだろう。こんな境遇に追い込まれれば、誰だって文句の一つも言いたくなるだろう。いや、一つでは済まないかもしれない。
『どうして、どうしていつもこうなんです! わたしばかりいつも酷い目にあって、暗い所に押し込められて……なのに遠坂先輩はいつも変わらず輝いていて! いつかわたしを……』
 そこで桜の言葉がぐっと詰まった。
『わたしを助けてくれるのだと、そう思っていたのに』
 急に声のトーンが沈んだ。そしておそらく、これこそが桜の言いたかったこと。ならばわたしは……。
 凛はそっと『桜』の頭を撫でる。愛おしむかのように、ゆっくりと。そしてそっと語りかけた。
『馬鹿ね、桜。助けてって言ってくれれば良かったのに。助けさえ求めてくれれば、それで――――』
『……な。そんな。そんなそんなそんな今更……!』
 桜が叫び、声を詰まらせた。間違いなく今の彼女は混乱している。それもそうだろう、この瞬間、今までの苦しみが全て『どうしようもないもの』から『自分の責任』へと変化してしまったのだ。もちろん彼女自身が責められるべき事ではない。だが、それでも……他人のせいにできなくなってしまえば、彼女の苦しみは二重三重の重みを持ってくる。それに耐えきれなくなりそうになった瞬間……ごめん、という一言が聞こえた。
『……え?』
『わたしは他人の痛みが想像出来ない人間だから。正直に言えば、桜がどんな辛い日々を送ってきたのか分からないし、理解しようとも思わないわ。だから……ううん、それを別としても。わたしは、わたしが恵まれているなんて思ったこと、一度もなかったわよ?』
 言い訳だ、と桜は感じた。自分の苦しみはどれほどのものか、それを理解できもしないくせに。ずっと恵まれているはずの憧れが、恵まれてなどいない? そんなの、今更の言い訳にしか思えなかった。
 しかし桜はその思いを口にしない。ごめんという言葉。それがいったいどこから来たのか、そちらの方が気になった。
『でもね。それがわたしの支えだった。わたしが辛ければ辛いほど、桜が楽できてるんだって信じたかった。そう思えば……苦しいなんて思う暇もなかったんだから。だって、わたし』
 もう一度凛は、ゆっくりと『桜』の頭を撫でた。感覚はないけれど……それでも、桜はその暖かさを感じた。
『桜のことが好きだし。いつも見ていたし、ずっと笑っていてほしかったし。……だから、ごめん。もっと早く、桜が助けてほしがっていることに気付けばよかった』
 他人の痛みが想像出来ない人間だからこそ、せめて。大切な人が苦しんでいることぐらいは気付きたかった。実際に凛が気付いたとしても、どうしていたかは分からない。おそらく結果は変わらなかっただろう。それでも、この結果を迎えて。姉として、後悔の念を抱かずにはいられなかったのだ。
 もしこの手で桜を殺していたら。いったいどうなっていただろう。凛は自問する。答えは出ない。出せるはずがない。それはどう考えても無理な話だったのだ、今の凛にはそう思えた。
『……遠坂先輩』
 自分にはまだ、自分のことを思ってくれている人がいる。それだけでも、桜にとっては十分な救いだった。孤独じゃない、まだ世界に見放されていない。
『……念話も、疲れるでしょう? ゆっくり休みなさい、桜。きっと、わたしたちがなんとかしてあげるから』
 そっと額を額にくっつける。少しでも桜が安心出来るよう祈りながら。
『はい……姉さん』
 最後に出た単語に、凛の思考が止まった。



   ―Interlude Out―





第7話に戻る
第9話に続く

(初版:10/26/2005)




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